ハビアン説法
神西清
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)窟《やぐら》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)相模《さがみ》入道|高時《たかとき》
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昨日はよつぽど妙な日だつた。日曜のくせにカラリと晴れた。これが第一をかしい。無精な私が散歩に出る気になつた。これも妙だ。北条の腹切り窟《やぐら》の石塔を、今のうちに撮影しておかうなどと、殊勝な心掛をおこした。これが第三にをかしい。おまけにまた……いや、順を追つて話すとしよう。
とにかく、カメラをぶらさげて家を出た。Nといふ小川を渡る。そこから爪先《つまさき》あがりになつて、やがて細い坂道にかかる。その坂道が、いつの間にやら、真新しいアスファルトに変つてゐた。
登りつめると、水色の高級車が一台とまつてゐて、その先にいきなり、思ひもかけぬ別天地がひらけた。
広びろした庭の小砂利《こじゃり》をふんで、セーラー服や吊《つり》スカートの少女たちが、三々五々つつましやかに歩き廻つてゐる。ははあ、園遊会だな、と咄嗟《とっさ》に思つたのは吾《われ》ながら迂闊千万《うかつせんばん》で、正面の数寄屋《すきや》づくりの堂々たる一棟は、なんと大きな十字架を、藁《わら》屋根の上にそびえさせてゐるではないか。詳しく言ふと、藁屋根のてつぺんに白木の櫓《やぐら》を組みあげ、その中に鐘を釣り、その頂きに何やら黒ずんだ十字架を立ててゐるのだ。面白い趣向である。まさしくこれは南蛮寺だと、例の悪い癖で早速あだ名をつけた。
折しもドミンゴ(日曜)のこととて、会堂の戸障子《としょうじ》はあけ放たれ、屋内に立ち居する信徒の姿が見える。黒いアビト姿のバテレン神父もちらちらする。オラショ(祈祷)は既に果てたと見え、ちらほら帰る人もある。
道をへだてたこちら側は清浄な運動場で、そこでは青年男女が、ハンドボールに興じてゐる。ピカピカなニュー・ルックの自転車の稽古《けいこ》をする者もある。
私はさうした光景を見て、この分ではひよつとすると、めざす窟なんぞはとうに埋立《うめた》てられ、石塔は敷石にでもなつて居はすまいかと心配になり、大急ぎで上へ登つた。幸ひにして、窟も石塔もツツガなく、稲束の置場に利用されてゐた。日の傾かぬうちにと、石塔に打掛けられた稲束を取りのけ、二三のアングルからカメラに収めたが、さてそこで窟のほとりに佇《たたず》んで、改めてエケレジヤ(教会)の壮観に眺め入つたのである。
元来この台地一帯は、北条氏の菩提寺《ぼだいじ》だつた東勝寺の旧跡で、且《か》つその一門滅亡の地でもある。太平記を按《あん》ずるに、義貞《よしさだ》のため一敗地にまみれ、この寺を枕に割腹焼亡した一族主従は、相模《さがみ》入道|高時《たかとき》を頭に総《す》べて八百七十余人、「血は流れて大地に溢《あふ》れ、満々として洪河の如《ごと》く」だつたといふ。その地が今化してエケレジヤとなり、信徒が群れ、ガラサ(聖寵)は降《くだ》り、朝夕アンゼラスの鐘が鳴る。世事|茫々《ぼうぼう》とはこの事だらうか。
もつとも、不浄の地を転じて浄福の地に化することは、古今東西その例に乏しくないやうだ。現にこのK市にも極楽寺《ごぐらくじ》があつて、古老の言によると、その地は往昔の刑場であり、古く地獄谷の称があつたといふ。であるから私が無限の感慨をそそられるのは、寧《むし》ろそのことではなくて、現に私がその前に立つてゐる石塔の主と、キリシタン宗との間に存するところの、浅からざる因縁についてである。けだしキリシタン宗は、恰《あたか》も足利《あしかが》の世に初めてわが国に渡来した。北条氏は足利氏の縁者である。その北条氏の滅亡遺恨の地に、今や南蛮寺が建つ。ジャボ(天狗)を相手に田楽《でんがく》を舞つた狂将の幽魂、今は全く瞑《めい》すべしであらうか。
それにしても、この会堂を敢《あえ》て南蛮寺と名づけた私の気持ちは、必ずしも一片の気紛れだけではない。京都や安土《あづち》のエケレジヤの建築様式については、南蛮|屏風《びょうぶ》や扇面|洛中《らくちゅう》洛外《らくがい》名所図などに徴して、ほぼ仏寺の体《てい》であつたと推定されてゐるが、これが地方へ行くと、むしろ武将の邸宅がそのまま会堂として提供された例が多い。豊後《ぶんご》の大友フランシスコ義鎮《よししげ》、肥前《ひぜん》の大村バルトロメオ純忠《すみただ》などの場合がそれだ。つまり南蛮寺としては、この方がむしろ本筋なのであつて、星移り物変つて昭和の今日、政商の別業が化してエケレジヤとなる如《ごと》きは、まことに南蛮寺の本旨《ほんし》に適《かな》つたものと言はねばならぬ。……
私は、藁《わら》屋根の上の例の櫓《やぐら》を眺めながら、しばらくそんな史的考察に耽《ふけ》つたのち、やをら立上つて、もと来た道を引返した。
私が再びエケレジヤの前に差しかかつたとき、知人H君のお嬢さんが友だち二三と腕を組んで出て来て、出会ひがしらに私に挨拶《あいさつ》した。私が修道院の所在をたづねると、すぐ隣に聳《そび》える二階建の宏壮な日本家屋を指さして見せた。瓦葺《かわらぶ》きの大きな門はしまつてゐたが、丁度《ちょうど》その時くぐりがカタリとあいて、一人の老神父が出て来た。お嬢さんたちと立話をしてゐる私を、その父兄とでも思つたのだらうか、神父はにこやかに私に会釈をしたので、私もあわてて礼を返す拍子に、ふとかのウルガン伴天連《バテレン》の風貌《ふうぼう》を思ひ浮べた。
ウルガン伴天連といふのは、信長の好意をかち得て、京都に南蛮寺を建立したイタリアの傑僧である。その風貌を或る古書は伝へて「其長《ソノタケ》九尺余、胴ヨリ頭小サク、面《オモテ》赤ク眼丸クシテ鼻高ク、傍ヲ見ル時ハ肩ヲ摺《コス》リ、口広クシテ耳ニ及ビ、歯ハ馬ノ歯ノ如《ゴト》ク雪ヨリモ白シ、爪《ツメ》ハ熊ノ手足ニ似タリ、髪ハ鼠《ネズミ》色ニシテ……」云々《うんぬん》と記してゐる。私は何も今しがた出会つた老神父が、右のやうな異相の人物だつたと言ふつもりはない。ただ、もし元亀《げんき》天正《てんしょう》の頃の日本人に見せたら、この老神父もまた、定めしかのウルガン伴天連の如く見えたことだらうと思ふわけである。
さて、そのやうにして南蛮寺門前を辞した私が、無量の感慨に耽りつつ坂道を下り、橋を渡り、道を左へ取つて尚《なお》も散歩をつづけて行くと、やがて日蓮上人辻説法《にちれんしょうにんつじぜっぽう》の址《あと》に差し掛つた。見ればその前に人だかりがしてゐる。通りすがりに横目でうかがふと、円頂|僧形《そうぎょう》の赤ら顔の男が、上人腰掛石の上につつ立ち、何ごとか熱弁をふるふ様子である。傍には、顔色の悪い瘠《や》せた青年が、復員服を着て立つてゐる。青年の右手には、桃太郎の絵にあるやうな白い幟《のぼり》が握られ、白地に紅く、Rといふ字が染めだしてある。
私はそのまま行き過ぎようとした。私は生来、宣伝といふものを好まない。宣伝するのもされるのも、共に嫌ひである。ましてやこれは、場所がらといひ弁士の恰好《かっこう》といひ、てつきり近頃はやりの新興宗教の宣伝にきまつてゐる。尚更《なおさら》のこと興味がない。
ところがその時、まるで私の袂《たもと》をぐいと引戻しでもするやうに、弁士がいきなり黄色い声を張りあげて、
「よいかな、お立会」と叫んだ。
これはまた、意外の呼びかけを聞くものである。そこらの新興宗教と違つて、ガマの油でも売り出すのかも知れん。そんなら久しぶりで一見の価値がある。私は人垣のうしろに立つた。
人垣といつても大した人数ではない。せいぜい十二、三人ほどだが、みんな相当のインテリらしい人品《じんぴん》である。アロハの兄ちやんや闇屋風の者は一人もゐない。買物|籠《かご》をさげた主婦の姿もない。むづかしい顔をして熱心に聞いてゐる。客種から察するところ、新興宗教だとしても、よほど高級な一派と見える。
「よいかな、お立会」と、弁士はもう一ぺん言つて、射抜くやうな目つきで聴衆を睨《ね》めまはした。
「ここが肝腎かなめな所ぢや。されば信長公の招きを受けたウルガン伴天連《バテレン》(おや、またウルガンが現はれたぞ!)弘法《こうぼう》の好機ござんなれと喜び勇《いさ》んで京を指して上《のぼ》つたが、そのとき摂州《せっしゅう》住吉の社《やしろ》、たちまち鳴動して、松樹六十六本が顛倒《てんとう》に及んだぞ。よいかな、六十六本ぢやぞ。この六十六を何と見る。まぎれもない、わが日本国の国かずぢや。」
甲高《かんだか》いくせにネチネチした、どうも不愉快な声である。私はよつぽど立去らうかと思つたが、この松の木のことでちよつと興味を引かれた。こんどの敗戦の直後、このK市では急に松が枯れだした。目ぼしい松は、一本残らず赤枯れに枯れた。それを思ひ出したのである。何を言ひ出すか暫《しばら》く聞いてみよう。
「それはさて置き、ウルガン伴天連やがて安土に到着して、信長公の目通りに出る。身には、蝙蝠《こうもり》の羽を拡げたやうなアビトといふ物を着け、御前に進んで礼をする。その礼式は、足指を揃《そろ》へて向うへ差出し、両手を組んで胸に当て、頭をずいと仰向《あおむ》くる。懐中の名香《みょうごう》、そのとき殿中に薫《こう》じ渡る。献上の品は何々ぞ。七十五里を一目に見る遠目金《とおめがね》、芥子粒《けしつぶ》を卵の如《ごと》くに見る近目金、猛虎の皮五十枚、五町四方見当なき鉄砲、伽羅《きゃら》百|斤《きん》、八畳釣りの蚊帳《かや》、四十二粒の紫金《しこん》を貫《ぬ》いたコンタツ。……すべてこれ、信長公をたばかり、その甘心を買はうとの魂胆ぢや。さるにても、むざとその手に乗せられた信長公こそ稀代《きたい》のうつけ者。すなはち京都|四条坊門《しじょうぼうもん》に四町四方の地を寄進なつて、南蛮寺の建立を差許さるる。堂宇《どうう》は七宝《しっぽう》の瓔珞《ようらく》、金襴《きんらん》の幡《はた》、錦《にしき》の天蓋《てんがい》に荘厳をつくし、六十一種の名香は門外に溢《あふ》れて行人《こうじん》の鼻をば打つ。さればウルガン伴天連《バテレン》、とても一人では弘法力に及ばずとて、更に本国より呼寄せたるは、フラテン伴天連、ケリコリ伊留満《イルマン》。ヤリイス伊留満。この三人もやがて信長公に目通りする。献上の品々、さきの例《ため》しに劣りがない。……」
弁士はちよつと言葉を切つて、また探るやうな目で聴衆を見まはした。別に不穏な空気もない様子に、気をよくしたらしく、
「されば南蛮キリシタン宗は」と、一段とさはやかな調子で先をつづけた。「一気に繁昌《はんじょう》に赴《おもむ》いたが、もとより普《あま》ねく病難貧苦を救うて現安後楽の願ひを成就《じょうじゅ》せんとの宗旨《しゅうし》であれば、やがて江州《ごうしゅう》伊吹山《いぶきやま》に五十町四方の地を拓《ひら》いて薬草園となし、本国より三千種の種苗《しゅびょう》を取寄せてこれに植うる。さて洛中《らくちゅう》洛外《らくがい》の非人乞食で大病難病を患《わず》らふ者を集め、風呂に入れて五体を浄《きよ》め、暖衣を与へて養生をさするに、癩瘡《らいそう》なんどの業病《ごうびょう》も忽《たちま》ちに全快せぬはない。その噂《うわさ》を聞き伝へ、近隣諸国の人々貧富|貴賤《きせん》の別《わ》かちなく南蛮寺に群集し、且《か》つは説教を聴聞《ちょうもん》し、且つは投薬の恵みにあづかる。何がさて南蛮キリシタン国は広大|富貴《ふうき》の国なれば、投薬の報謝、門徒の布施は一せつ受けぬ。却《かえ》つて宗門に帰依《きえ》する者には、毎日一人あて米一|升《しょう》、銀八分をば加配する。されば忽ちに愚民の甘心を……」
「愚民とは何だ、人民と言へ!」と、ここで初めて野次《やじ》が飛ぶ。
弁士はさつと鼻白《はなじろ》んで、暫《しばら》く絶句した。そのすきに聴衆がざわつきだす。
「どうも論旨《ろんし》が、少々唯心論的ぢやありませんかな」と、隣の男がその連れに話しかける。若い教員風の男である。
「
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