やをら立上つて、もと来た道を引返した。
私が再びエケレジヤの前に差しかかつたとき、知人H君のお嬢さんが友だち二三と腕を組んで出て来て、出会ひがしらに私に挨拶《あいさつ》した。私が修道院の所在をたづねると、すぐ隣に聳《そび》える二階建の宏壮な日本家屋を指さして見せた。瓦葺《かわらぶ》きの大きな門はしまつてゐたが、丁度《ちょうど》その時くぐりがカタリとあいて、一人の老神父が出て来た。お嬢さんたちと立話をしてゐる私を、その父兄とでも思つたのだらうか、神父はにこやかに私に会釈をしたので、私もあわてて礼を返す拍子に、ふとかのウルガン伴天連《バテレン》の風貌《ふうぼう》を思ひ浮べた。
ウルガン伴天連といふのは、信長の好意をかち得て、京都に南蛮寺を建立したイタリアの傑僧である。その風貌を或る古書は伝へて「其長《ソノタケ》九尺余、胴ヨリ頭小サク、面《オモテ》赤ク眼丸クシテ鼻高ク、傍ヲ見ル時ハ肩ヲ摺《コス》リ、口広クシテ耳ニ及ビ、歯ハ馬ノ歯ノ如《ゴト》ク雪ヨリモ白シ、爪《ツメ》ハ熊ノ手足ニ似タリ、髪ハ鼠《ネズミ》色ニシテ……」云々《うんぬん》と記してゐる。私は何も今しがた出会つた老神父が、右のやうな異相の人物だつたと言ふつもりはない。ただ、もし元亀《げんき》天正《てんしょう》の頃の日本人に見せたら、この老神父もまた、定めしかのウルガン伴天連の如く見えたことだらうと思ふわけである。
さて、そのやうにして南蛮寺門前を辞した私が、無量の感慨に耽りつつ坂道を下り、橋を渡り、道を左へ取つて尚《なお》も散歩をつづけて行くと、やがて日蓮上人辻説法《にちれんしょうにんつじぜっぽう》の址《あと》に差し掛つた。見ればその前に人だかりがしてゐる。通りすがりに横目でうかがふと、円頂|僧形《そうぎょう》の赤ら顔の男が、上人腰掛石の上につつ立ち、何ごとか熱弁をふるふ様子である。傍には、顔色の悪い瘠《や》せた青年が、復員服を着て立つてゐる。青年の右手には、桃太郎の絵にあるやうな白い幟《のぼり》が握られ、白地に紅く、Rといふ字が染めだしてある。
私はそのまま行き過ぎようとした。私は生来、宣伝といふものを好まない。宣伝するのもされるのも、共に嫌ひである。ましてやこれは、場所がらといひ弁士の恰好《かっこう》といひ、てつきり近頃はやりの新興宗教の宣伝にきまつてゐる。尚更《なおさら》のこと興味がない。
ところがその時、まるで私の袂《たもと》をぐいと引戻しでもするやうに、弁士がいきなり黄色い声を張りあげて、
「よいかな、お立会」と叫んだ。
これはまた、意外の呼びかけを聞くものである。そこらの新興宗教と違つて、ガマの油でも売り出すのかも知れん。そんなら久しぶりで一見の価値がある。私は人垣のうしろに立つた。
人垣といつても大した人数ではない。せいぜい十二、三人ほどだが、みんな相当のインテリらしい人品《じんぴん》である。アロハの兄ちやんや闇屋風の者は一人もゐない。買物|籠《かご》をさげた主婦の姿もない。むづかしい顔をして熱心に聞いてゐる。客種から察するところ、新興宗教だとしても、よほど高級な一派と見える。
「よいかな、お立会」と、弁士はもう一ぺん言つて、射抜くやうな目つきで聴衆を睨《ね》めまはした。
「ここが肝腎かなめな所ぢや。されば信長公の招きを受けたウルガン伴天連《バテレン》(おや、またウルガンが現はれたぞ!)弘法《こうぼう》の好機ござんなれと喜び勇《いさ》んで京を指して上《のぼ》つたが、そのとき摂州《せっしゅう》住吉の社《やしろ》、たちまち鳴動して、松樹六十六本が顛倒《てんとう》に及んだぞ。よいかな、六十六本ぢやぞ。この六十六を何と見る。まぎれもない、わが日本国の国かずぢや。」
甲高《かんだか》いくせにネチネチした、どうも不愉快な声である。私はよつぽど立去らうかと思つたが、この松の木のことでちよつと興味を引かれた。こんどの敗戦の直後、このK市では急に松が枯れだした。目ぼしい松は、一本残らず赤枯れに枯れた。それを思ひ出したのである。何を言ひ出すか暫《しばら》く聞いてみよう。
「それはさて置き、ウルガン伴天連やがて安土に到着して、信長公の目通りに出る。身には、蝙蝠《こうもり》の羽を拡げたやうなアビトといふ物を着け、御前に進んで礼をする。その礼式は、足指を揃《そろ》へて向うへ差出し、両手を組んで胸に当て、頭をずいと仰向《あおむ》くる。懐中の名香《みょうごう》、そのとき殿中に薫《こう》じ渡る。献上の品は何々ぞ。七十五里を一目に見る遠目金《とおめがね》、芥子粒《けしつぶ》を卵の如《ごと》くに見る近目金、猛虎の皮五十枚、五町四方見当なき鉄砲、伽羅《きゃら》百|斤《きん》、八畳釣りの蚊帳《かや》、四十二粒の紫金《しこん》を貫《ぬ》いたコンタツ。……すべてこれ、信長公をたばかり、その甘
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