ゑぢや。それデウス如来はスピリツアル・スブスタンシヤとて無色無形の実体、またサピエンチイシモ(三世了達の智)たり。未だ人間を造らざるに先だち、まづ無量のアンジョ(天人)を造つて、厳にデウスのみを拝さんことを訓《さと》し給《たま》ふ。然るにアンジョの中にルシヘルと云へる者、インテリゲンシヤ(知)に傲《おご》つて慢心を起し、人の生くるはパンのみによる也《なり》と言ひ、己れを拝さんことを衆に勧む。デウス赫怒《かくど》したまひ、ルシヘルこの罪によつてインヘルノに堕《お》つ。これジャボの初めなり。この類《たぐ》ひのジャボ殊《こと》に頗《すこぶ》る当今の貴国に多し。よつて斯《か》くは布教に努む。』愚僧|呵々《かか》大笑、たち所に破して曰《いわ》く―『笑止なりやフルコム、自縄自縛《じじょうじばく》とはこれ汝の返答のことか。もしデウス汝の言の如《ごと》くにサピエンチイシモならば、何とて罪に落つべきルシヘルをば造つたぞ。落つると知つて造りたらば、これ天下第一の悪業なり。また知らずして造りたらば、デウスがサピエンチイシモたるの実いづこにありや。如何《いか》に如何に』と詰め寄れば、フルコム黙然《もくねん》として早や返答がない。すなはち愚僧、懐中に匿《かく》し待つ[#「待つ」はママ]たるクルスを取りいだし、これを三段に折つて座中に投げ散らせば、満座はどつとばかりどよめき渡り、めでたく宗論は結着した。……」
聴衆の中でも、そこここに感歎《かんたん》の声がもれる。弁士は得意げにあたりを見廻し、
「さて、お立会」と言ひかけた。
ところが、その時早しその時おそし、聴衆のなかに忽《たちま》ち破《や》れ鐘のやうな哄笑《こうしょう》が起つて、ぬつと前へせせりだした一名の壮漢がある。弁士と同じく僧形《そうぎょう》で、頭には柿《かき》色の網代笠《あじろがさ》をいただき、太い長杖をついてゐる。後姿なので人相も年の頃も分らないが、声から察するところ、まづ五十がらみの年配でもあらうか。つかつかと石段へ歩み寄ると、
「なつかしや梅庵、この声が分るかの」と言つた。静かな太い声である。
梅庵はその瞬間、かすかに顔色を変へたやうだつたが、口は利かない。
「分らずば言はうか。わしはその昔そなたと宗論をして、そなたを論破して、そなたの頭に扇子《せんす》をふるつたあの柏翁《はくおう》ぢやよ。ほれ、今そなたがした作り宗論のなかの、そなた自身の役割を実際にしたのは、確かこの柏翁であつたはずぢやの。……なつかしや梅庵、いやさ不干《ふかん》ハビアン。」
梅庵はよろよろつとした。復員服があわててそれを支へる。聴衆の中でぶつぶつ呟《つぶや》き声が起る。柏翁と名乗る僧は、悠然と先をつづける。
「なうハビアン、思へばそなたは哀《かな》しい男ぢや。そなたはもと、恵春というて禅門の僧であつたものを、はからずも癩瘡《らいそう》を病んで膿血《うみち》五臓にあふれ、門徒の附合も叶《かな》はず、真葛《まくず》ヶ|原《はら》で乞食をして年を経たところを、南蛮宗ウルガン和尚の手に救はれ、懇《ねんご》ろな投薬加療その験あつて忽《たちま》ち五体は清浄となる。その恩に感じて南蛮キリシタン宗に帰依《きえ》し、ハビアンと名を改め、カテキスタ(同宿)として天晴《あっぱ》れ才学を謳《うた》はれたも束の間、一朝にして己れがインテリゲンシヤに溺《おぼ》れ、増長慢《ぞうちょうまん》に鼻をふくらし、恩顧の宗門に弓を引いて『破デウス』の一書を著はす。その魂、救《すくい》を求むれども神仏儒蛮いづれにも安心を得ず。つひに(と、ここで柏翁は幟《のぼり》の文字をずいと指さし)Resistantia《レジスタンシヤ》 宗の教祖となつて、死すれども死せず、死せざれども生ぜず、永劫《えいごう》にロギカの亡霊となつて中有《ちゅうう》をさまよひ、今また四百歳の後、姿をここに現ず、哀《あわ》れむべし、汝《なんじ》ハビアン。……」
柏翁がここまで言つたとき、不思議なことが起つた。もつとも妙なことばかり起る日だから、今更どんな珍事がもち上つても大して驚かないつもりだが、とにかく忽然《こつぜん》として梅庵も復員服も、かき消すやうに失《う》せてしまつたのである。あとには例の白い幟が、これまた地上を離れて、ふはりふはりと空へ舞ひあがる。松の木をかすめ家なみを越え、うしろの山へ飛んで行く。その白い地色に、ちらちら紅い色のまじるのは、例のRの大文字がちらつくのか、それとも夕焼けの色が映るのか。それはもう確めるすべもなかつた。……
底本:「日本幻想文学集成19 神西清」国書刊行会
1993(平成5)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「神西清全集」文治堂
1961(昭和36)年発行
初出:「朝日評論」
1950(昭和25)年1月発行
※ルビ
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング