ジェイン・グレイ遺文
神西清
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)御宇《ぎょう》
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(例)御教育|掛《がかり》
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チュドル王朝第三代エドワアド六世の御宇《ぎょう》のこと、イングランドのほぼ中央リスタアの町に程遠からぬ、ブラッドゲイト城の前庭を、のちのエリザベス女王の御教育|掛《がかり》、碩学《せきがく》ロウジャ・アスカムが横ぎつて行く。季節は卯薔薇《うばら》の花乱れ咲く春、それも極くのどかな午《ひる》さがりと思ひたい。霧の深い秋のことではなかつたらう。アスカムの齢《とし》は三十六か七か、それにしては悠々たる足どり。やがて城を登る。が、小肥《こぶと》りの躯《からだ》をつつむ寛《ゆる》い黒衣の影を石階の日溜《ひだま》りに落したまま、暫《しば》しは黙然と耳を澄ます。遥かチャアンウッドの森を伝つて来る笛の音こそ、城の主、のちのサフォオク公ヘンリイ・グレイが、奥方はじめ一統を引き連れての、徒然《つれづれ》の狩遊びと見えた。四つの櫓《やぐら》のそそり立つ方形の城の中は、森閑《しんかん》として物音もない。絵のやうに霞《かす》むリスタアの風物のさなか、春の日ざしに眠つてゐる。
「長閑《のどか》なことよ。御一統には狩遊びと見ゆる」
と、出会ふた侍女にアスカムは声を和らげて問ふ。侍女は上眼づかひに「御館《みたち》に残らるるは上の姫様だけ」と答へる。「ジェイン様か、それは。」碩学の肉づきのいい額《ひたい》を、かすかに若皺《わかじわ》が寄る。身を飜《ひるがえ》して、日も射さねば仄暗《ほのぐら》い拱廊《きょうろう》をやや急ぎ足に渡つて行く。黒い影が、奥まつた急な階段をものの二丈ほど音もなく舞ひ昇つて、やがて上の姫の居間の閾《しきい》に立つた。丈の高い樫《かし》の椅子《いす》が、厳《いか》つい背をこちらへ向けて、掛けた人の姿はその蔭にかくれて見えぬ。雪のやうな裳《も》すそのみゆたかに床に這《は》ふ。
「姫!」と呼んだ。
届かぬ沓《くつ》の爪先《つまさき》をやつと床に降して、ジェインは振り向く。二つに分けた亜麻《あま》色の垂髪《たれがみ》は、今年わづかに肩先を越えたばかり、それを揺《ゆす》つて澄みかへつた瞳を、師と呼べば呼べる人の面《おもて》に挙げた。
「まあ、アスカム様。」
読みさしの書を傍の小卓のうへに押しやつて、数へ年十五の姫は立つた。アスカムはその手を止めて、手ざはりの粗い頁《ページ》のうへ、刷りの黄ばんだ希臘《ギリシャ》文字に、すばやく眸《め》を走らせる。
「フェエドンを読まれてか?」
と、ややあつて訊《き》く。姫は巴旦杏《はたんきょう》のやうに肉づいた丸い脣《くちびる》を、物言ひたげに綻《ほころ》ばせたが、思ひ返したのかそのままに無言で点頭《うなず》いた。アスカムは窓に満ちる春霞《はるがすみ》の空へと眼を転ずる。揚《あ》げ雲雀《ひばり》の鋭い声が二つ三つ続けざまに、霞を縦に貫《つらぬ》いて昇天する。やがて彼が優しく問ひかけた。
「あの雲雀《ひばり》のやうに春の日を遠慮なしに浴びるのはお厭《いや》か。なぜに父御と一緒に狩に興ぜられぬ?」
ジェインは微笑《ほほえ》んだ。智に澄んだ瞳のやや冷やかな光がその漾《ただよい》に消える。
「園の遊びごとは」と彼女が言ふ、「プラトンの書に見る楽しみにくらべて物の数には入りませぬ。まことの幸の棲処《すみか》もえ知らぬ、世の人心のうたてさ。」……
古《いにし》への物語はやはり古風な話し振りをせねばならぬので骨が折れる。が兎《と》に角《かく》、一五五一年、時の碩学《せきがく》ロウジャ・アスカムがブラッドゲイトの城にジェイン・グレイを訪ねて、その叡才《えいさい》に舌を捲《ま》いた折の情景は、僕《やつがれ》未だ彼自らの手に成る記録を読む機会を得ず、他人の抜書きしたのを一見したのに過ぎぬが、先《ま》づこの様なものだつたらうと想像する。なほジェインの話は続いて、その読書の道に入つた動機を滔々《とうとう》と述べ立ててゐるのだが、長くなるから割愛することにして、以下少しばかり智の権化《ごんげ》のやうなこの少女の上を振りかへつて見たい。
『倫敦《ロンドン》塔』のなかで漱石の言つた通り、「英国の歴史を読んだもので彼女の名を知らぬ者はあるまいし、又|其《そ》の薄命と無残の最後に同情の涙を濺《そそ》がぬ者はない」に違ひない。
しかし、ここに遺憾なことは、人々の興味がヘンリイ八世の小姪に当る高貴なその生れとか、数奇を極めた十七年の生涯とか、その美貌《びぼう》とかの方へ牽《ひ》かれがちなため、彼女の魂の美しさを物語る遺文がともすれば、好事家《こうずか》の賞玩《しょうがん》にのみ委《ゆだ》ねられてゐることではあるまいか。尤《もっと》も彼女の遺文は主として哲学|乃至《ないし》は宗教の論議に渉《わた》るものであり、且《か》つその一部が羅典《ラテン》語で記されてゐることなどが、ながく一般の注意の彼方《かなた》に逸し去つた原因であるかも知れぬ。それにせよ、ジェイン・グレイの遺文に満ち溢《あふ》れるばかりの博識と信念、深情と智性とが、不滅の文学的モニュマンを築き上げてゐることに変りはない。
伝へに依《よ》れば、彼女は羅典、希臘《ギリシャ》をはじめ、ヘブライ、カルデヤ、アラビヤ、仏蘭西《フランス》、伊太利《イタリヤ》と、都合七つの外国語に通暁《つうぎょう》してゐたことになつてゐる。これは少し割引きして見ることにしても、その他音楽にも針仕事にも堪能だつたと言はれる彼女の博学と文藻《ぶんそう》、それから女性らしい優雅さは疑ふことは出来ないのだ。その遺文として今日確証されてゐるものは次の八種である。
(一)チュリッヒの牧師ハインリヒ・ブリンゲルに宛てたる書簡三通(ともに羅典語)
(二)旧教に改宗せる友(恐らくサフォオク公附の牧師ハアヂング博士ならん)を責めたる書簡
(三)処刑に先立つ四日、ウェストミンスタアの僧院長にしてメリイ女王|附《つき》牧師たりしフェッケンハムと試みたる信教問答
(四)処刑に先立つ数日間に綴《つづ》れる祈祷《きとう》文
(五)処刑に先立つ数週、塔中より父サフォオク公に宛てたる書簡
(六)処刑の前夜、最後の思出として希臘文新約聖書の巻尾に記して妹カザリンに与へたる訓戒
(七)処刑台上にて述べたる談話
(八)祈祷《きとう》書に挟める犢皮《こうしがわ》に記したる覚書《おぼえがき》(大英博物館所蔵)
試みにこのうちの(六)を、掻《か》いつまんで訳してみよう。――
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「愛《いと》しい妹カザリンよ、あなたにこの本を贈ります。この本の外側には黄金の飾《かざり》もなく巧みな刺繍《ししゅう》の綾《あや》もありませんが、中身はこの広い世界が誇りとするあらゆる金鉱にも増して貴いものです。これは主の掟《おきて》の書、主が私共哀れな罪人にと遺《のこ》された聖約また遺言なのです。これによれば私共は永遠のよろこびへと導かれませう。もしこの本を心|籠《こ》めて読みこの掟を守らうと心掛けるなら、あなたに不滅の生の齎《もたら》されることは疑ひありません。この本はあなたに生き方を、そして死に方を教へて呉《く》れませう。(中略)
それから私の死のことを申せば、愛しい妹よ、どうぞ私と同じやうによろこんで下さい。私は穢《けが》れを捨てて清浄を着るのですから。
(そして相当の長さに亘《わた》つて信教に関する力強い訓戒が語られ、最後は次の様に結んである)では、もう一度|左様《さよう》なら、愛しい妹よ、そして何卒《なにとぞ》あなたを救ふ唯一者、神にあなたの唯《ただ》一つの信仰を置くやうに。
アーメン。」
[#ここで字下げ終わり]
これを書き写しながら図らずも思ひ浮ぶのは、モンテエニュがその『随筆』のなかに引用した「哲学を学ぶは死することを学ぶに外《ほか》ならぬ」といふシセロの言葉である。モンテエニュは実に「死ぬことを学ぶ」ことに苦心した人であつた。「余が自らに就《つ》いて最も気掛りになつてゐるのは、余が美しく、即《すなわ》ち気長に騒がずに、悠揚として死にたいと云ふことだ」と言つてゐる。そしてジェイン・グレイは全くこの境に到達してはゐないだらうか。例へば前に挙げた手紙などは、処刑前夜の十七歳の一少女の手記としては余りに冷静なのに人々は驚くであらう。しかもそれは魂の冷やかさから来る感じでは決してないのだ。最も純粋な道徳の状態と言ふものは斯《か》かる姿をしてゐるのではないか。また最も高揚された情緒と言ふものは斯《こ》ういふ境地なのではあるまいか。
その翌日、一五五四年二月十二日は来た。己れの意に反してイングランドの王位に在ること僅《わず》か九日、その次の日には早くも死を宣せられた幽囚の女王としてボアシャン塔に送られ、この日まで数へれば七ヶ月は流れてゐる。刑場に於ける彼女の気高い態度、そして従容《しょうよう》たる死に就いては、スタエル夫人も麗筆を振ひ、また手近かな所では漱石の所謂《いわゆる》「仄筆《そくひつ》」も振はれてゐる。だが事実は詩人の空想よりもつと残酷であつた。
はじめメリイ女王の考へでは、ジェインとその夫ギルフォオド・ダッドレイを一緒にして、塔の広場で処刑することにしてあつた。が結局余りに強烈な印象を生むのを怖れて、ギルフォオドのは広場で、ジェインのは塔の構内でと、別々に行はれることに変更された。先《ま》づギルフォオドが曳《ひ》かれて行つた。彼が妻の獄窓の下を通りかかつた時、二人は七ヶ月振りの、そして最後の眸を無言のまま見交すことが出来た。
やがて彼の処刑が終るや否や、直ちにジェインは呼び出された。彼女には動じた気配はいささかも見えなかつた。祈祷《きとう》書を手に、物静かに牽《ひ》かれて行く様子は、恰《あたか》も愛人の許《もと》へ伴はれる花嫁に似てゐたと言はれる。が、この時運命は彼女のために、もつとも残酷な試練を用意してゐたのであつた。彼女は刑場に充《あ》てられた「|塔の芝生《タワ・グリイン》」へ入らうとして、思ひがけず、丁度《ちょうど》広場から礼拝堂へ運び入れられる夫の血まみれの屍《しかばね》に行き会はなければならなかつた。彼女は夫を見た。祈祷書を握りしめ、彼女の眼は涙の影をさへ見せなかつた。却《かえ》つて傍にあつた侍女エリザベス・チルニイやヘレンの咽《むせ》び泣く声が、無気味な静寂をいたづらにかき乱した。……
底本:「日本幻想文学集成19 神西清」国書刊行会
1993(平成5)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「神西清全集」文治堂
1961(昭和36)年発行
初出:「セルパン」
1932(昭和7)年11月発行
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆、小林繁雄、Juki
2008年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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