うがん》にのみ委《ゆだ》ねられてゐることではあるまいか。尤《もっと》も彼女の遺文は主として哲学|乃至《ないし》は宗教の論議に渉《わた》るものであり、且《か》つその一部が羅典《ラテン》語で記されてゐることなどが、ながく一般の注意の彼方《かなた》に逸し去つた原因であるかも知れぬ。それにせよ、ジェイン・グレイの遺文に満ち溢《あふ》れるばかりの博識と信念、深情と智性とが、不滅の文学的モニュマンを築き上げてゐることに変りはない。
伝へに依《よ》れば、彼女は羅典、希臘《ギリシャ》をはじめ、ヘブライ、カルデヤ、アラビヤ、仏蘭西《フランス》、伊太利《イタリヤ》と、都合七つの外国語に通暁《つうぎょう》してゐたことになつてゐる。これは少し割引きして見ることにしても、その他音楽にも針仕事にも堪能だつたと言はれる彼女の博学と文藻《ぶんそう》、それから女性らしい優雅さは疑ふことは出来ないのだ。その遺文として今日確証されてゐるものは次の八種である。
(一)チュリッヒの牧師ハインリヒ・ブリンゲルに宛てたる書簡三通(ともに羅典語)
(二)旧教に改宗せる友(恐らくサフォオク公附の牧師ハアヂング博士ならん)を責めたる書簡
(三)処刑に先立つ四日、ウェストミンスタアの僧院長にしてメリイ女王|附《つき》牧師たりしフェッケンハムと試みたる信教問答
(四)処刑に先立つ数日間に綴《つづ》れる祈祷《きとう》文
(五)処刑に先立つ数週、塔中より父サフォオク公に宛てたる書簡
(六)処刑の前夜、最後の思出として希臘文新約聖書の巻尾に記して妹カザリンに与へたる訓戒
(七)処刑台上にて述べたる談話
(八)祈祷《きとう》書に挟める犢皮《こうしがわ》に記したる覚書《おぼえがき》(大英博物館所蔵)
試みにこのうちの(六)を、掻《か》いつまんで訳してみよう。――
[#ここから2字下げ]
「愛《いと》しい妹カザリンよ、あなたにこの本を贈ります。この本の外側には黄金の飾《かざり》もなく巧みな刺繍《ししゅう》の綾《あや》もありませんが、中身はこの広い世界が誇りとするあらゆる金鉱にも増して貴いものです。これは主の掟《おきて》の書、主が私共哀れな罪人にと遺《のこ》された聖約また遺言なのです。これによれば私共は永遠のよろこびへと導かれませう。もしこの本を心|籠《こ》めて読みこの掟を守らうと心掛けるなら、あなたに不滅の生の齎《もたら》されることは疑ひありません。この本はあなたに生き方を、そして死に方を教へて呉《く》れませう。(中略)
それから私の死のことを申せば、愛しい妹よ、どうぞ私と同じやうによろこんで下さい。私は穢《けが》れを捨てて清浄を着るのですから。
(そして相当の長さに亘《わた》つて信教に関する力強い訓戒が語られ、最後は次の様に結んである)では、もう一度|左様《さよう》なら、愛しい妹よ、そして何卒《なにとぞ》あなたを救ふ唯一者、神にあなたの唯《ただ》一つの信仰を置くやうに。
アーメン。」
[#ここで字下げ終わり]
これを書き写しながら図らずも思ひ浮ぶのは、モンテエニュがその『随筆』のなかに引用した「哲学を学ぶは死することを学ぶに外《ほか》ならぬ」といふシセロの言葉である。モンテエニュは実に「死ぬことを学ぶ」ことに苦心した人であつた。「余が自らに就《つ》いて最も気掛りになつてゐるのは、余が美しく、即《すなわ》ち気長に騒がずに、悠揚として死にたいと云ふことだ」と言つてゐる。そしてジェイン・グレイは全くこの境に到達してはゐないだらうか。例へば前に挙げた手紙などは、処刑前夜の十七歳の一少女の手記としては余りに冷静なのに人々は驚くであらう。しかもそれは魂の冷やかさから来る感じでは決してないのだ。最も純粋な道徳の状態と言ふものは斯《か》かる姿をしてゐるのではないか。また最も高揚された情緒と言ふものは斯《こ》ういふ境地なのではあるまいか。
その翌日、一五五四年二月十二日は来た。己れの意に反してイングランドの王位に在ること僅《わず》か九日、その次の日には早くも死を宣せられた幽囚の女王としてボアシャン塔に送られ、この日まで数へれば七ヶ月は流れてゐる。刑場に於ける彼女の気高い態度、そして従容《しょうよう》たる死に就いては、スタエル夫人も麗筆を振ひ、また手近かな所では漱石の所謂《いわゆる》「仄筆《そくひつ》」も振はれてゐる。だが事実は詩人の空想よりもつと残酷であつた。
はじめメリイ女王の考へでは、ジェインとその夫ギルフォオド・ダッドレイを一緒にして、塔の広場で処刑することにしてあつた。が結局余りに強烈な印象を生むのを怖れて、ギルフォオドのは広場で、ジェインのは塔の構内でと、別々に行はれることに変更された。先《ま》づギルフォオドが曳《ひ》かれて行つた。彼が妻の獄窓の下を通りかかつた時、
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