ムツェンスク郡のマクベス夫人
LEDI MAKBET MCENSKOVO UEZDA
レスコーフ Nikolai Semyonovich Leskov
神西清訳
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鳩尾《みぞおち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二|分《ふん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#ローマ数字1、1−13−21]
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(例)こう/\
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[#ここから7字下げ、ページの左右中央]
毒くわば皿
――ことわざ――
[#ここで字下げ終わり]
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※[#ローマ数字1、1−13−21]
ひょっくり出会ったその時から、たとえ長の年つきが流れたにしても、思いだすたんびに鳩尾《みぞおち》のへんがドキリとせずにはいられないような――そんな人物に、われわれの地方では時たまお目にかかることがある。商人の妻女のカテリーナ・リヴォーヴナ・イズマイロヴァも、まさしくそうした人物の一人だ。これは、いつぞや怖るべき惨劇をもちあげて、それからこっち土地の貴族連中から、誰やらの減らず口をそのままに、ムツェンスク郡のマクベス夫人[#「ムツェンスク郡のマクベス夫人」に傍点]と呼びならわされている女である。
カテリーナ・リヴォーヴナは、いわゆる美人じゃなかったけれど、見た目の感じのじつにいい女だった。まだ二十四の誕生日には手のとどかぬ年頃で、小柄ながらもすらりと伸びのいい、まるできれいに磨きあげた大理石のような頸すじをした、肩つきのむっちりとまあるい、胸のふくらみのきりりとしまった、薄手の鼻すじのよくとおった、黒い眼のくりくりした、抜け出るように色白な秀でた額《ひたい》つきをした、おまけにもう一つ、漆黒の――いやそれこそ翠《みどり》の黒髪とでも言いたいような髪の毛をした、――ざっとまあそうした女である。
クールスク県のトゥスカリという所から、この土地の商人イズマイロフのところへ貰われて来たのだったが、べつにこの男に惚れたわけでも、何かほかに見どころがあったわけでもなかった。ただイズマイロフが貰いたいと言うから、嫁に来たまでのことで、なにぶん貧乏人の娘であってみれば、婿がねの選り好みをするわけにも行かなかったのである。イズマイロフの店といえば、われわれの町でもまず中《ちゅう》どころで、極上のメリケン粉を商ない、郡部にある大きな製粉所を一つ賃貸しにしてその手に握り、なおその上に郊外にはなかなか実入りのいい果物ばたけもある、市内には立派な貸家の一つもある、といった身上《しんしょ》だった。商家としてはまずもって裕福な方である。おまけに家族が至って小人数で。舅のボリース・チモフェーイチ・イズマイロフはもう八十ちかい老人、だいぶ前からやもめになっている。息子のジノーヴィー・ボリースィチは、つまりカテリーナ・リヴォーヴナの亭主で、これまた五十を越した年配。それに当のカテリーナ・リヴォーヴナと、たったこの三人だけである。ジノーヴィー・ボリースィチに嫁いでそろそろ五年になるが、カテリーナ・リヴォーヴナには子供がなかった。ジノーヴィー・ボリースィチも、はじめの細君と二十年ほど連れ添ったあげくに、やもめになってカテリーナ・リヴォーヴナを迎えた次第だったが、やっぱり子供がなかった。せめて後添いからでも、屋号と資本の跡をとる子を授かれることだろうと、彼は考えもし期待もしたのだったが、カテリーナ・リヴォーヴナとのあいだにもやはり、子宝は授からなかったのである。
子供のないということが、ジノーヴィー・ボリースィチには一方ならぬ悩みの種だった。いや、ジノーヴィー・ボリースィチだけではない。ボリース・チモフェーイチ老人にしても、いや当のカテリーナ・リヴォーヴナに至るまでが、口惜しくて口惜しくてならなかったのである。まず第一には、高い塀をめぐらし、鎖をはなした番犬どもに守られたこの用心堅固な商人の居城に、明け暮れ日をおくる侘びしさが、ふさぎの虫をこの商人の若妻の胸にうえつけたばかりか、時にはそれが狂乱の一歩手前にまで昂《こう》じることも、一度や二度ではなかったのだ。そんな時、ああ赤ん坊がほしい、ねんねこ唄をうたってやる赤ん坊がほしい――と思いつめる彼女の胸のなかは、神様だってご存じあるまいというものである。それにまたもう一つ、『なんだってわたしは、なんだってわたしは嫁になんぞ来たんだろう。生まず女《め》のくせに、なんだって臆面もなく、男一匹の運勢の邪魔だてをしに来たんだろう!』という、われとわが身を咎める内心の声が、二六時ちゅう耳について離れず、ほとほとうんざりしてしまったのだ。さながらその声は、良人にたいしても舅にたいしても、いやそればかりか彼らの曇りない商家の血統にたいしてまで、彼女が何か犯罪をおかしたのだぞと、責めたてているようにひびいた。
何不足ない裕福の身の上だったとはいえ、舅の家におけるカテリーナ・リヴォーヴナの明け暮れは、世にも辛気くさいものであった。よそへお客に行くことも滅多になかったし、よしんば時たま商人仲間のつきあいで良人と連れだって馬車に乗って出かけるにしても、嬉しい気持は一切しなかった。世間の目は相変らずきびしく、彼女が椅子にかける物ごしから、部屋へ通る歩きつき、椅子を立つ身ぶりに至るまで、一挙一動細大もらさず見張っている。ところがカテリーナ・リヴォーヴナは、あいにく気性のはげしい女だった。おまけに、娘時代を貧乏のうちに送った彼女は、何ごともざっくばらんにぱっぱとやってのける癖がついていた。言われれば二つ返事で、すぐさまバケツ両手に川へ駈けだす。シュミーズ一枚のあられもない姿で、堤のかげで水浴びもする。木戸ごしにヒマワリの実《み》の殻《から》を、通りすがりの若い衆めがけてぶつけもする。そんな育ちの彼女にとって、ここは全く別世界だった。舅と良人は朝はやく床をはなれて、六時にはお茶をたらふく飲んで、すぐさま仕事へ出かけてしまう。のこる彼女は日がな一日ぽつねんとして、部屋から部屋へうろつき※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]って一人ですごす。どこを見ても小ざっぱりと清潔だ。どこもかしこもシンとして人っ子ひとりいはしない。みあかしは聖像の前でちらちらと燃え、家じゅうどこにも、生きものの気配ひとつ、人間の声ひとつしない。
カテリーナ・リヴォーヴナは、人っ気のない部屋から部屋へ、さんざ歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]ったあげく、退屈のあまりあくびが出て、やがて梯子段をのぼって夫婦の寝間へあがって行く。天井の高い、狭い中二階に、ベッドが二つ並べてあるのだ。そこでも暫く腰をおろして、穀倉の前で雇い人たちが麻の目方をかけたり、メリケン粉を袋へ入れたりしている有様を、眺めるともなく眺めているうち、――またしてもあくびの出るのが、彼女には却って嬉しかった。これ幸いとものの小一時間ほど、うとうとと昼寝をして、さて目がさめれば――またしても相も変らぬ退屈さだ。例のロシヤの味気なさ、商家の昼の辛気くささで、いっそ首でもくくった方がましだと、下世話にもいうあれである。カテリーナ・イヴォーヴナは読書の趣味がなかったし、それにだいいち本というしろものが、キーエフ聖者伝一冊のほかには、家じゅうどこを捜したって見つからない始末なのである。
カテリーナ・リヴォーヴナが、裕福な舅の家で、不愛想な良人につれそって、五年という年つきを送った明け暮れは、ざっと以上のようなわびしいものだった。かといって誰一人、そうした彼女のわびしさに、些かたりとも注意を向ける者のなかったことも、これまた浮世のならいにはちがいなかった。
※[#ローマ数字2、1−13−22]
カテリーナ・リヴォーヴナが嫁に来て六度目の春のこと、イズマイロフ家の持っている製粉所の堤が決潰した。折も折、まるでわざと狙ったように、製粉所は仕事で満腹のていだったし、おまけに決潰の個所が案外に大きくて、修理もなかなかはかが行かなかった。水かさは、空っぽになった放水溝の土台をさえ下※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る始末で、その水かさを手っとり早く上げようと色々苦心はしてみたが、いつかな成功しなかった。ジノーヴィー・ボリースィチは近隣の在所の人手をのこらず製粉所へ駆りだして、自分も夜ひるわかたず現場に附きっきりだった。町の方の仕事はすっかり老人ひとりで切り盛りすることになって、カテリーナ・リヴォーヴナは来る日も来る日も日がな一日、独りぼっちの味気なさをかこつことになった。はじめのうち彼女には、良人のいないのがいささか手持ぶさたに思われたけど、やがて結句その方がましなような気がしてきた。ひとりの方が気楽になったのである。もともと大して恋しいほどの相手ではなし、おまけに良人が留守なら留守で、とにかく御目付け役が一人がた減ろうというものである。
ある日カテリーナ・リヴォーヴナは、例の屋根裏の小窓のそばに陣どって、これといって物を考えるでもなく、さかんにあくびを連発していたが、やがての果てにあくびをするのが吾ながら恥ずかしくなった。おもてはなんとも言えぬ上天気だった。ぽかぽかして、明るくって、陽気で、――庭の緑いろに塗った柵のすきからは、小鳥が嬉々として枝から枝へ樹から樹へ、とび移っているすがたが見てとられた。
『ほんとに、なんだってまあこう、あくびばかし出るんだろうねえ?』と、カテリーナ・リヴォーヴナは考えた。――『ええ、いっそ思いきっておみこしを上げて、中庭をひと歩きしてみるか、それとも庭の方へでも行ってみるとしよう。』
そこでカテリーナ・リヴォーヴナは、花模様のついた緞子の古外套をひっかけると、おもてへ出ていった。
そとはさんさんと明るい日ざしで、深ぶかと胸いっぱい息がつけた。穀倉の前の差掛《さしかけ》のところで、いかにも面白そうな笑い声がしている。
「何がそんなに面白いのさ?」とカテリーナ・リヴォーヴナは、舅の使っている番頭衆に問いかけた。
「なにしろお内儀《かみ》さん、ぴんぴん生きた牝豚の目方をはかろうって言うんでございますよ、はい、エカテリーナ・イリヴォーヴナ」([#ここから割り注]訳者註。リヴォーヴナの頭にイを添えたのは一種馬鹿丁寧な下品な呼び方[#ここで割り注終わり])と、年寄りの番頭がいんぎんに答えた。
「牝豚って、一体なんのことなの?」
「つまりこうでさあ、アクシーニヤという牝豚のことなんでさ。やっこさん、めでたく息子のヴァシーリイを産み落としたのはいいが、おいらを洗礼祝いに招《よ》んでくれなかったんでねえ」と、悪びれぬ陽気な調子で、一人の若い衆が説明した。それは鼻っ柱のつよそうな、きれいな顔をした男で、漆のように黒ぐろとした渦まき髪と、やっと生えかけたちょび髯が、その顔をふちどっている。
するとその時、秤杆《はかりざお》へ吊るさげたメリケン樽のなかから、おさんどんのアクシーニヤの血色のいいハチきれそうな豚づらが、ぬうっとのぞいた。
「ええ、忌々しいよ、のっぺり面の極道者めらが!」と、おさんどんは口汚なく罵りながら、なんとか鉄の杆《さお》にとっつかまって、ぐらぐらする樽から脱け出そうと懸命だった。
「夕飯前でも結構三十五貫と出たぜ。これで大籠いっぱい乾草を平らげようもんなら、分銅の方が追っつかねえや!」と、またもや美男の若い衆が口上を述べて、樽をぐいとかしげざま、片隅に積んであった叺《かます》のうえへ、おさんどんをどさりと抛りだした。
おさんどんは冗談はんぶん悪口雑言をならべながら、みだれた髪や衣裳をつくろいはじめた。
「ねえちょいと、わたしはどのくらい掛かるかしら?」とカテリーナ・リヴォーヴナは茶目気をだして、縄につかまると、ひょいと台の上へとび乗った。
「十四貫八百」とおなじ美男の若い衆セルゲイは、分銅を皿
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