笑い声がおこった。
「わるもの!」とカテリーナ・リヴォーヴナはささやいて、男の新しい女の頭から引っぱがしたばかりの布の端で、セルゲイの顔を打った。
 セルゲイは手を振り上げようとした。けれどカテリーナ・リヴォーヴナはひらりと身がるに廊下を駈け抜けて、じぶんの監房の戸に取りついた。男囚部屋の笑い声は、彼女の後ろからまたもやどっと揚ったが、それがあんまり高かったので、ちょうど灯明皿の前に無念無想のていで佇んで、じぶんの長靴の先っぽに唾を吐きかけていた番兵が、思わず首をもたげて、
「シーッ!」と叱咤したほどだった。
 カテリーナ・リヴォーヴナは黙って横になると、そのまま朝までじっとしていた。彼女は自分に向って、『もうあの人には愛想がつきたわ』と言って聞かせたかったが、そのじつ内心では可愛さ恋しさが一そうつのる思いだったのだ。あの人の手のひらがあいつ[#「あいつ」に傍点]の首の下のあたりでわなわなと顫えていた、のこる片手はあいつの火照った肩を抱きしめていた……そんな光景が、追っても追っても目蓋を去らなかった。
 因果な女はとうとう泣きだして、ああ今この時こそあの手のひらが自分の首の下のへんにあ
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