つけるのであった。つまり、自分はあのフェージャ・リャーミンのおかげで、みじめな男になり下ってしまった。それというのも、彼女――すなわちカテリーナ・リヴォーヴナを、商人仲間ぜんたいの前に、天晴れ堂々たる御寮人様として押しだすすべを、今ではなくしてしまったからだ……というのである。そして、この口説にセルゲイがつける結論はいつもきまって、もしあのフェージャという者がなく、おまけに彼女――すなわちカテリーナ・リヴォーヴナが、良人の失踪の日からかぞえて九カ月に満たぬうちに、首尾よく赤んぼを産み落としさえしたら、資本は残らずごっそり彼女のものになって、そうなったらもう彼ら二人の幸福には終りも涯しもあろうはずはあるまいと、結局はそこに落ちつくのであった。

      ※[#ローマ数字10、1−13−30]

 ところがその後、セルゲイはぱったり跡取り息子の話をしなくなった。セルゲイの口に、跡とりの話がのぼらなくなるや否や、フェージャ・リャーミンの面影は却ってはっきりと、カテリーナ・リヴォーヴナの脳裡にも胸中にも根をおろしてしまった。それのみか、彼女は物思いがちになり、当のセルゲイに対しても、愛想のない顔を見せるようになった。夢寐の間だろうが、店の采配を振っている最中だろうが、神に祈りをささげる時だろうが、彼女の想いはただ一つ、――『そんな筈ってあるもんだろうか? まったく、なんだってわたしは、あの子のために資本《もと》も子もなくしちまわなくちゃならないんだろう? 何しろわたしは、ここまで辛い思いをして来たのだ。……ここまで罪障ぶかい真似までして来たのだ』と、カテリーナ・リヴォーヴナは考えるのである、――『だのにあいつは、のほほんと此処へやって来て、濡手で粟と掻っ浚って行くんだ。……それも一人前の男ならまだしものこと、たかが口のまわりに卵の黄身のついた子供のくせにさ。……』
 はやくも初霜がおりはじめた。ジノーヴィー・ボリースィチが、相変らず消息不明だったことは、申すまでもあるまい。カテリーナ・リヴォーヴナはむくむく太りだして、しょっちゅう眉の根を寄せていた。町じゅうもう彼女の噂でもちきりで、あのイズマイロフの若女房は、これまでずっと生まず女《め》で、だんだん痩せこける一方だったものが、それが急に正面がせり出して来たのは、そもそもどういう訳だろうかと、しきりに評定し合うのだった。その一方、まだ頑是ない共同相続人のフェージャ・リャーミンは、ふわりとした栗鼠の外套を着て、屋敷うちをぶらついたり、水たまりに張った薄氷を割ったりしていた。
「あれまあ、坊っちゃん! あれまあ、フョードル・イグナーチエヴィチ!」と、おさんどんのアクシーニヤが中庭を小走りに抜けながら、頓狂な小言をいうのだった、――「れっきとした商家の坊っちゃんのくせしてさ、いけませんよ、水たまりを掘ったりなすっちゃ!」
 ところがこの共同相続人たるや、自分がカテリーナ・リヴォーヴナやその意中の人にとって、それほど目の上のたん瘤だろうなどとは露知らず、あどけない仔山羊のようにただもう跳ね※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]っているばかり、且つはまた夜ともなれば、おもり役のおばあさんの胸にもぐり込んで、更に一そうあどけない眠りに落ちて、この自分が誰かの邪魔になったり、その仕合わせを削《けず》ったりしていようなどとは、夢にも思いも考えもしない始末だった。
 やがての果てに、フェージャは水疱瘡にかかり、そのうえに感冒性の胸の痛みが併発して、そこで少年は病いの床についた。はじめは薬草だ本草だと手をつくしてみたが、そのうちとうとう医者を迎えにやった。
 医者がしげしげと通って来て、いろいろと処方をしてくれ、その薬を時間どおりに、おばあさんが手ずから飲ませるのだったが、時にはカテリーナ・リヴォーヴナが頼まれることもあった。
「お手数ですがの」と、おばあさんが頼むのである、――「な、カテリーヌシカ。お前さんも追っつけお母さんですわの。その通り身重になって、神さんの思召しを待つばかりのお前さんに、こんな厄介をかけてはまことに済まんがの、まあ宜しくお頼《たの》もうしますよ。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは、婆さんの頼みを、はいはいと聴いてやった。婆さんが、『いたつきの床に臥している童子フョードルの本復』を祈願に、晩祷に出かけたり、聖パンを頂きに早朝のミサに出かけたりするたびに、カテリーナ・リヴォーヴナは病床に附添って、のどが渇くといえば水を飲ませる、時間どおりに薬をあたえる、という甲斐甲斐しさだった。
 さてある晩のこと、婆さんは聖母宮入祭の前夜の夕拝と晩祷に出かけ、フェージュシカの看病をカテリーヌシカに頼んでいった。その頃はもう少年はだいぶ快方に向っていた。
 カテリーナ・リヴォーヴナがフェージャ
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