できたらしいよ、セリョージェチカ。つまり跡とりが出来たのさ」と、彼女はセルゲイに告げて、さっそく町会へ訴願におよんだ。こう/\こういうわけで、察するところどうやら――妊娠したらしくあるが、一ぽう店の仕事は、そろそろとどこおりだしている。この際わたしに一家の切り盛りをお許しねがいたい――というのである。
 商売が台なしになるとあっては一大事である。それにカテリーナ・リヴォーヴナは、まさにその良人の正妻であるに相違ない。うち見たところ負債もない様子である。であってみれば、よろしく彼女に家督をゆるすべきである。――というわけで、彼女は家督をゆるされた。
 そうしてめでたく、カテリーナ・リヴォーヴナの天下になった。彼女の意志によって、セルゲイはもはやセリョーガなどと呼び捨てにされずに、セルゲイ・フィリップィチと立てられることになった。ところがそこへ、天から降ったか地から湧いたか、思わぬ厄介ごとが持ちあがった。リーヴンという町から町長のところへ手紙が舞いこみ、その文面によると、ボリース・チモフェーイチが商売を営んでいたのは、自分の資本一本によるものではなくて、運転資本のなかには彼の甥にあたるフョードル・ザハーロフ・リャーミンという未成年者の金が、じつは彼自身の金よりも多く混っていたものであるから、この事業は一応せんぎを要すべく、カテリーナ・リヴォーヴナ一個の手に帰せしむべきではない、というのであった。この注進が舞いこんで、町長はそのことをカテリーナ・リヴォーヴナの耳に一先ず入れたのだったが、驚くなかれ一週間後にはなんと、遥々リーヴンくんだりから、婆さんが年端もゆかぬ少年をたずさえて、ひょっこり到着したのである。
「わたしはね、亡くなったボリース・チモフェーイチの従妹でしてね、この子はわたしの甥のフョードル・リャーミンでござんす」――という挨拶。
 カテリーナ・リヴォーヴナは二人を中へとおした。
 両人が到着するとから、カテリーナ・リヴォーヴナが中へ通すまで、一部始終をうかがっていたセルゲイの顔は、ハンカチのようにまっ蒼になった。
「どうかしたの?」――お客さんのあとから彼がはいって来て、じろじろ二人の様子を眺めながら控室に立ちどまった時、その死人のような色の蒼さを見て、おかみさんが尋ねた。
「いいやべつに」と、控室から玄関へ引き返しながら、番頭は答えた。――「ただね、このリーヴンのお客さんがたは、気分《きーぶん》に障りやすぜ」――そう彼は、玄関の戸を後ろ手にしめながら、溜息まじりに洒落のめした。
「さてそこでと、一体どうしたもんですかな?」――とセルゲイ・フィリップィチが、カテリーナ・リヴォーヴナに問いかけたのは、二人がサモヴァルに向って腰をおろした時だった。――「どうやらこれで、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、あっしらの大望もおじゃんですぜ。」
「なぜおじゃんなんだい、ええセリョージャ?」
「だってさ、これで何もかも洗いざらい、分け取りってことになるんでしょう。その挙句に残ったなけなしの物じゃ、さっぱり主人になり甲斐がなかろうじゃありませんかい?」
「おやセリョージャ、お前さんには少なすぎるとでも言うのかい?」
「いいや、べつにあっしにどうのこうのと言うんじゃありませんがね。ただちょいと心配なのは、そうなるとつまり、あっしたちの仕合わせにも差し響きはすまいかと、そんな気がするもんでしてね。」
「そりゃまたなぜなのさ? どうして仕合わせまでが消えてなくなるんだい。ええ、セリョージャ?」
「ほかでもありませんがね、あんたが可愛くって可愛くってならねえあっしの気持にして見りゃ、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、あんたに正真正銘の奥様ぐらしをこそして貰いたいんで、これまでみたいなミミッチイ暮らしなんぞ、まっぴら御免でさあ」と、セルゲイ・フィリップィチは答えた。――「ところが賽の目はがらり外れて、今度こうして元手が減ったおかげで、あっしたちは今までにくらべてさえ、二段も三段もさがった暮らしをしなけりゃならないんでさあ。」
「けどね、セリョージャ、あたしはべつに、贅沢なんかしたくはないことよ。」
「なるほどそりゃあ、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、あんたにして見りゃ、痛くも痒くもないことかも知れませんや。だがね、少なくともあっしの身にしてみりゃあ、あんたを大事に思えば思うだけ、また一つにゃ、焼いたり妬《ねた》んだりしている世間の野郎どもの目に、あっしたちの暮らしがどう映るだろうかと思うにつけ、なんとしてもこりゃ辛いことでさあ。あんたは勿論、平気の平左でいられるかも知れませんがね、あっしはどうも、万一そんな工合になったら、とても仕合わせな気持じゃいられそうもありませんや。」
 といった調子で、追っかけ引っかけセルゲイは、カテリーナ・リヴォーヴナを焚き
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