きから既に、純粋に虚無の人ではなかったであろうか。主義の上のことを言うのではない。彼の内なる否応《いやおう》ない生命の営みのことを指すのである。
このような人間にとって、感受とは、表現とは、所詮《しょせん》音楽の形式を離れることが出来ないのではあるまいか。人の世のくさぐさは音楽の波として享受され、その享受は再び音楽の波として放出されるのではあるまいか。事実、チェーホフにあってはそうであった。このような契機から生まれたのが、彼独得の雰囲気の芸術、気分の芸術だったのである。
少数の例外を除いて、彼の円熟期の作品はことごとく、右のような約束を果しているものと見なければならない。それらを完全に理解するためには別の眼が要るのである。つまり、すぐれた演出による『桜の園』なり『三人姉妹』なりの舞台面によって養われた眼を、そのまま何の修正も加えずに、彼の短篇小説の上にも転じることが、よし心構えだけにせよ要求されるのである。読者が演出者たることを強いられる極端な場合の一例である。片言や点景が、筋の運びのためにあるのではなく、もっと奥深い調和のためにあり、遥か野末から弦の断《き》れたような物音が何ご
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