いことは、彼が真正の科学者だったことである。その心の厳しさと広さをもって、彼は人性の醜悪《しゅうあく》を解するとともに、人性の高貴さをも逸しなかった。彼がいわゆる実験小説に対蹠していたことは、丁度わが国で最も深く正しく科学精神をつかんでいた鴎外《おうがい》の芸術が、自然主義一派の文学と鋭く対立した事情に酷似していはしまいか。科学上の知識は「常に私を用心深くさせた」とは、チェーホフの心からなる告白である。
 彼は、婦人科の医者の醜悪な一面のみを強調して描いた或る作家志望の女性を戒めて、婦人科医はみんな、夢のなかの女性に憧《あこ》がれる理想家です、と注意している。ノアの天才と救世的な事業を忘れて、酔漢をしか彼のうちに見なかったハムの真似《まね》をするな、と言っている。またジフィリスというものの意義を誇大視して、変質や精神病を描いた同じ婦人を戒めて、それらの病因をなすものはジフィリスだけではなくて、幾多の事実――ヴォトカ、煙草《たばこ》、知識階級の暴食、唾棄《だき》すべき教育、筋肉労働の不足、都会生活の条件などの集合である、と指摘している。深い科学的教養は彼を錬金術に赴《おもむ》かせなかったと同時に、あらゆる固陋《ころう》からも解放したのである。
 そこで、或る病患に加えられる一つのタッチは、例えばジフィリスのような直接的な誘因に触れるのみならず、その他様々の複雑な文化的要因にも触れ、したがっては時代の特質に触れるのでなければならない。つまり、或る現実断片を描こうとする一振りのタッチは、その内部に潜みかくれている遠近、強弱、高低、濃淡、数かぎりない因子たちを呼《よ》び醒《さ》まし、それを通じてそれらの因子を共有する他の無数の現実断片に交感し呼応するものでなければならない。作家は材料を研究室の中に閉じ籠めてはならない。それをあるがままの環境に置き、その環境との自然的な有機的な交流に於《お》いて、その生態を捉えなければならない。――彼の抱いていたリアリズム観とは、大体このようなものであったと想像することが出来るであろう。
 時に一種の博愛主義に見あやまられがちのチェーホフの温かさとか、しみじみとした情愛とかいうものは、実は深い知から生まれたものであることを忘れてはならない。彼は何も人間が可愛かったのではない。真実が可愛かったのである。彼は、曾《かつ》て長篇の枠どりに幻滅したときから既に、純粋に虚無の人ではなかったであろうか。主義の上のことを言うのではない。彼の内なる否応《いやおう》ない生命の営みのことを指すのである。
 このような人間にとって、感受とは、表現とは、所詮《しょせん》音楽の形式を離れることが出来ないのではあるまいか。人の世のくさぐさは音楽の波として享受され、その享受は再び音楽の波として放出されるのではあるまいか。事実、チェーホフにあってはそうであった。このような契機から生まれたのが、彼独得の雰囲気の芸術、気分の芸術だったのである。

 少数の例外を除いて、彼の円熟期の作品はことごとく、右のような約束を果しているものと見なければならない。それらを完全に理解するためには別の眼が要るのである。つまり、すぐれた演出による『桜の園』なり『三人姉妹』なりの舞台面によって養われた眼を、そのまま何の修正も加えずに、彼の短篇小説の上にも転じることが、よし心構えだけにせよ要求されるのである。読者が演出者たることを強いられる極端な場合の一例である。片言や点景が、筋の運びのためにあるのではなく、もっと奥深い調和のためにあり、遥か野末から弦の断《き》れたような物音が何ごとかを暗示し、そのまま何の解決もなしに永遠の流れに融《と》けて入る――といったことを、彼は何も戯曲の中だけでやったのではないのである。
 彼の行文は明晰《めいせき》で平明だ。言語学者の眼から見ると、殆《ほと》んどスラヴ語のニュアンスを欠いているとさえ言われている。しかしその底には怖《おそ》るべき漠然さがある。彼は非常に多くの隠微なものを読者の演出にまで残している。恐らく彼は、音楽に於ける漠然さの価値を信じたポオと同様に、散文芸術に於ける漠然さを尊んだのでもあろうか。
 そういう彼の短篇技法を、要約して述べることは恐らく大変に困難なことに違いない。彼は実に豊富なあれこれの手法を駆使して、巧みにこの要求をみたしているからである。既に『わびしい話』にしてからが、物語的要素のムーヴマンとしては寧ろ冗漫さを歎《なげ》かせるに過ぎず、一種の情感的ムーヴマンとして受用する場合にはじめて美しい調和を露わにすることは、多分周知のことであろうが、こうしたいわば音楽的構成がとる形の頗る変幻自在なことも亦《また》いなみがたい事実に相違ない。
 試みに、彼の円熟期の諸作のなかでも最も完成した形式をもつ『中二階の
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