ろう》にとまっている鴉《からす》の嘴《くちばし》が見えるほどだった。」(『晩花《おそばな》』第二章。同年)
後者は、晩秋の晴れわたった白昼を描いたものである。下って一八八六年の兄への手紙で彼は、「水車場の土手にはガラス瓶《びん》の破片《かけら》が星のようにきらめき、犬だか狼だかの真黒《まっくろ》な影が転がるように駈《か》け抜けた」と書けば、月夜が出来あがるでしょうと言っている。
全く同様の発明として擬音の唐突な挿入があるが、重要な点は彼がこうした手法の使い方を実によく心得ていたことである。彼はそれを極めて稀《まれ》に、必須の場合に限って、使用したのである。彼の簡潔主義は一面このような節制を伴っていたのであり、これが彼を奇矯《ききょう》さや、奇矯さから来る退屈さから防いでいたことは明《あきら》かだ。
しかしそれらは、後年のチェーホフがより磨かれた形で愛用した形式のプリミチヴな萌芽《ほうが》にしか過ぎず、初期の諸作を貫く定まった形式というものはまず見当らぬと言って差支えない。それは屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》パロディであり、時に稚い模倣ですらあった(例えば一八八五年の『猟手』をツルゲーネフの『あいびき』と比較して見たまえ)。そういう彼をやがて危機が見舞った。そして彼の内心の目覚めに応じて、非常な混沌が形式の上にも来た。大体八〇年代末の数年のことである。
この模索時代の悲痛は、その時期の作品にも手紙にもはっきりと痕《あと》を残している。彼が自国の古典を貪《むさぼ》るように渉猟したのも、そしてゴーゴリに心酔したのもこの時代のことである。荒浪《あらなみ》のような内的要求がともすれば彼を長篇へ誘おうとしたのもこの時代のことである。「小説を書こうとすると、先ず額縁のことで心を労さなければならない。で大勢の主人公や半主人公の中から、唯《ただ》一人――妻なり夫なりを選んで、専らその一人だけを描き、彼を強調さえする一方では、他の人達はまるで小銭のように画面にばら撒《ま》き散らす。すると天《そら》の穹窿《きゅうりゅう》のようなものが出来あがる。一つの大きな月と、それを取り巻いている沢山《たくさん》の小さな星たちと。ところがこの月は成功しない。他の星たちも理解されてこそ初めて月は理解されるのに、星の方は仕上げがしてないのだから」(大意)とは、一八八八年『祝宴』を書いた直後に彼が自分に加えた批判であった。またその翌年には、『オブローモフ』にむかっ腹《ぱら》を立てて、あんな「別に複雑でも何でもない、ダース幾らの小っぽけな性格を、社会的タイプにまで引上げてやるのは勿体《もったい》なさすぎる」とさえ言い放っている。
月も星たちも丹念に仕上げをされていなければならず、そして月も星たちもともに社会的タイプにまで引上げてやるだけの価値のあるものでなくてはならない。――この要求をみたすに最も適《ふさ》わしい形式が、ツルゲーネフこのかた半世紀を洋々として流れて来ているロシヤ的インテリ小説の伝統の中に見出されることは、更《あらた》めて言うまでもなかろう。彼の作中で一番長篇小説的な風格を帯びている『決闘』(一八九一年)などは、彼が事実この野心につよく惹かされていたことを物語っている。
だがチェーホフはこうした借着的な形式に永く満足することは出来なかった。彼は独創した。それは先ず大胆に小説的な額縁や構成をかなぐり棄てるところから始まった。その第一歩が、言うまでもなくあの有名な『わびしい話』(一八八九年)なのである。
ここで、話を進める前に是非とも触れて置かなければならないと思うのは、彼の抱いていた頗《すこぶ》る独得なリアリズム観である。彼が自ら唯物論者と称していたことは周知の如くであるが、これは彼が文学上の医者であったことを意味するものに他ならない。何も人はパンのみで生きると考えていたわけではない。医者といっても彼の信じたのは純正医学の立場であって、医療の方面は寧ろ軽蔑していた。彼がトルストイの『クロイツェル・ソナータ』に反撥《はんぱつ》したり、ツルゲーネフでは『父と子』など一、二篇をしか認めず、ブールジェの『弟子』を排斥したりしたのは、彼等が科学者の態度を逸脱して天上のことに容喙《ようかい》し、謂《い》わば錬金術師の所業に堕したからなのである。チェーホフは「自分の顕微鏡や探針やメスなどが使える場所でなければ、真理を求めることは出来ない」と言っているが、これはそのまま、「その手に釘《くぎ》の痕を見、わが指を釘の痕にさし入れ」て見なければ基督《キリスト》の復活は信じないと言い張った、不信者トマスの言葉に飜訳《ほんやく》することが出来るであろう。
それでは彼は、ゾラ流の実験文学の袋小路に陥ったであろうか。飛んでもないことだ。何よりも忘れてならな
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