いた直後に彼が自分に加えた批判であった。またその翌年には、『オブローモフ』にむかっ腹《ぱら》を立てて、あんな「別に複雑でも何でもない、ダース幾らの小っぽけな性格を、社会的タイプにまで引上げてやるのは勿体《もったい》なさすぎる」とさえ言い放っている。
月も星たちも丹念に仕上げをされていなければならず、そして月も星たちもともに社会的タイプにまで引上げてやるだけの価値のあるものでなくてはならない。――この要求をみたすに最も適《ふさ》わしい形式が、ツルゲーネフこのかた半世紀を洋々として流れて来ているロシヤ的インテリ小説の伝統の中に見出されることは、更《あらた》めて言うまでもなかろう。彼の作中で一番長篇小説的な風格を帯びている『決闘』(一八九一年)などは、彼が事実この野心につよく惹かされていたことを物語っている。
だがチェーホフはこうした借着的な形式に永く満足することは出来なかった。彼は独創した。それは先ず大胆に小説的な額縁や構成をかなぐり棄てるところから始まった。その第一歩が、言うまでもなくあの有名な『わびしい話』(一八八九年)なのである。
ここで、話を進める前に是非とも触れて置かなければならないと思うのは、彼の抱いていた頗《すこぶ》る独得なリアリズム観である。彼が自ら唯物論者と称していたことは周知の如くであるが、これは彼が文学上の医者であったことを意味するものに他ならない。何も人はパンのみで生きると考えていたわけではない。医者といっても彼の信じたのは純正医学の立場であって、医療の方面は寧ろ軽蔑していた。彼がトルストイの『クロイツェル・ソナータ』に反撥《はんぱつ》したり、ツルゲーネフでは『父と子』など一、二篇をしか認めず、ブールジェの『弟子』を排斥したりしたのは、彼等が科学者の態度を逸脱して天上のことに容喙《ようかい》し、謂《い》わば錬金術師の所業に堕したからなのである。チェーホフは「自分の顕微鏡や探針やメスなどが使える場所でなければ、真理を求めることは出来ない」と言っているが、これはそのまま、「その手に釘《くぎ》の痕を見、わが指を釘の痕にさし入れ」て見なければ基督《キリスト》の復活は信じないと言い張った、不信者トマスの言葉に飜訳《ほんやく》することが出来るであろう。
それでは彼は、ゾラ流の実験文学の袋小路に陥ったであろうか。飛んでもないことだ。何よりも忘れてならな
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