チェーホフの短篇に就いて
神西清

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)崎山正毅《さきやませいき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)芸術的|叡知《えいち》

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(例)※[#二の字点、1−2−22]
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 先日、カサリン・マンスフィールドの短篇集を読む機会があって大変たのしかった。崎山正毅《さきやませいき》氏の訳も立派だと思った。中でも『園遊会』などは三度くりかえして読んだが、やはり面白さに変りはなかった。これに反し、『幸福』など、繰りかえして読むのはどうかと思われるような作品もある。何かしら匂いが強すぎるのである。それは寧《むし》ろ緩《ゆる》やかな忘却作用のなかで愉《たの》しんでいたいような作品だった。
 がとにかく、この人がチェーホフの唯一の後裔《こうえい》のように言われるのは予《かね》て耳にしていたものの、こうまでチェーホフ的なものを吾が物にしていようとは夢にも思わなかった。チェーホフ的? 人は恐らくそう言う場合には、あの『可愛《かわい》い女《ひと》』や『唄うたい』や『睡《ねむ》い』や、まずそうした作品を子守歌のように思い浮べるのであろう。そしてそれもよいのだ。しかしまた、そうした気分的なものの実体の捉えがたさもまた格別である。
 ここに唯一つたしかなことは、よく人の言う「チェーホフ的」な感じというものが、既に時の波に洗われきった聖チェーホフの雰囲気であることだ。それはエーテルのように私達の身のほとりに漂《ただよ》う。それは捕えがたい。……このニュアンスを、まんまと捕えて自家薬籠中のものとしたマンスフィールドの心には、非常に聡明《そうめい》な女性が住んでいたのに違いない。チェーホフの亜流が誘われがちの湿っぽい感傷から、彼女が全く免《まぬ》かれているのは、強《あなが》ち緯度の違いや、ましてや時代の違いからばかりではあるまい。何故《なぜ》ならそこに見られるものは単なる醇化《じゅんか》作用ではなく、いわば強い昇華作用が働いているからだ。これが影響の最も望ましい形であることは言うまでもない。マンスフィールドには何か私録のようなもの(たしか日記だったと思うが)があって、それが発表されているように
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