よ。」
「でも、ばあやさんは、その人のお葬いに行ったの、行かなかったの?」
と聞くと、
「行きましたとも。みんなして行ったのですよ。伯爵がね、芝居者をのこらず連れて行って、うちの者のなかからそんな立派な奴の出たことを、よく見させて置けと下知したのですからね。」
「それで、お別れができたわけなの?」
「できましたともさ! みんなお棺のそばへ行って、お別れをしたのですよ。そしてわたしは……そう、あの人はすっかり面変りがして、これがあの人かとびっくりするほどでした。痩せこけて、まっ蒼な顔をして――無理はありません、血がすっかり出尽してしまったのですもの。何しろあの人が刺し殺されたのは、ちょうど真夜中のことでしたからねえ。……一たいどれほどの血をあの人は流したことやら……」
そこで乳母は口をつぐんで、考えこんでしまった。
「で、ばあやさんは」と、わたしが聞く、――「それからどうしたの?」
乳母はハッとわれに返ったらしく、片手で額を一撫でして、「初めのうちは、さっぱり覚えがないのですよ、――どうして家まで帰ったものかがね、……まあみんなと一緒でしたから、――きっと誰かが肩をすけてくれたのでしょうよ。……やがてその晩、ドロシーダ・ペトローヴナが言うには、
――ねえ、それじゃいけないよ……まんじりともしないで、まるで石みたいにコチコチになって臥ているなんてさ。それじゃ身が持たないよ――お泣き、思いっきり泣いて泣いて、泣きつくしておしまい。」
と言われてわたしは、
――それが駄目なのよ、小母さん……胸のなかがまるで炭火のように、かっかと燃えるんですもの、消そうたって消せないわ。」
すると小母さんは、
――まあそうなのかい。じゃもういよいよ、この水筒の御厄介になるんだね。」
そう言って例の壜から一杯ついでくれて、
――いつぞやは、これをやるんじゃないよと言って、お前さんに禁《と》めだてをしたわたしだけれど、もうこうなったら仕方がない。まあ一杯やって、その炭火を消すがいいさね。」
わたしが、『いやですわ』と言うと、小母さんは、
――お馬鹿さんだねえ。誰が初めから好き好んで、こんなものを飲むものかね。そりゃこれはなんとも言えずにがいさ。だが歎きの毒は、これよりもっとにがいんだよ。そこでこの毒の汁を炭火にぶっかけてごらん――たちまち消えてしまうから妙さ。ぐっとおやり、早くぐっとおやりな!」
わたしは忽ち、その壜を空っぽにしてしまいました。とても厭な味だったが、でもそれがないと眠れなかったのです。その次の晩もやっぱり飲んで……それがとうとう習い性になって……今じゃもうそれがないと寝つけないのですよ。そこでこうして小っちゃな水筒を手に入れて、お酒をちょいちょい買ってくるんですよ。……でも坊っちゃんはいい子だから、ママさんに言いつけなんかしませんわね。しもじもの者に、煮湯を呑ませるもんじゃありませんよ。しもじもの者は目にかけてやらなければいけませんよ。だってしもじもの者は、みんな受難者なんですものねえ。今日もこれから帰りしなに、わたしはあの居酒屋の角のところで、小窓をトントンと叩くんですよ。……まさか自分であの店へはいるわけには行きませんからね。この空っぽの水筒を窓から入れてやって、また一杯にしてもらうのですよ。」
子供ごころにも乳母の気持が身にしみて、わたしはどんなことがあっても決してその『水筒』のことは口外しないと、かたく約束した。
「ありがとうよ、坊っちゃん、――言いつけないで下さいね。ばあやはこれがないと、生きて行けないのですからね。」
今でもこうして目をつぶると、わたしはありありとあの乳母の姿を目に見、その声を耳に聞く思いがするのである。夜がふけて家じゅうが寝しずまると、毎晩のように乳母は、骨の節ひとつ鳴らさぬように用心しいしい、そっと寝床に半身をおこす。しばらくじっと聴き耳を立ててから、やがて起きだすと、例の細長いリューマチの脚を忍ばせて、小窓の方へ行く。……やや暫したたずんで、あたりをうかがい、またも聴き耳をたてる。寝部屋からママが出て来はしまいかと案じるのである。それから、やおら例の『水筒』の頸をカチリと歯に当てると、呼吸をはかって「一杯やる」のであった。ぐびり、またぐびり、またもう一ぺん。……そんなふうに炭火をしめして、アルカーシャの追善をすると、ふたたび寝床へかえってゆく。――そうして毛布の下へもぐりこむと、まもなく静かに、じつに静かに、フュー・フュー、フュー・フュー、フュー・フューと寝息を立てはじめる。そしてぐっすり寝入ってしまうのだ!
何が怖ろしいといって、これほど凄惨な、胸の底まで掻きむしられるような追善供養を、わたしはこの年になるまで見たことがない。
底本:「真珠の首飾り 他二篇」岩波文庫、岩波書店
1951(昭和26)年2月10日第1刷発行
2007(平成19)年2月21日第7刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※原註記号「*」は、底本では直前の文字の右横に、ルビのように付きます。
入力:oterudon
校正:伊藤時也
2009年7月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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