もとに身を投げました。
「おたすけ下さい、火にあたらせて夕方まで匿まって下さい。」
 神父さんが、こう聞きます、――
「愛児《まなご》たちよ、あんたがたは一体どういうお人かな? 物盗りかな、それとも只の逐電なのかな?」
 アルカージイがそれに答えて、――
「わたしどもは何ひとつ物を盗った覚えはありません。ただカミョンスキイ伯爵の魔手から逃げだして参った者で、これからトルコ人部落のフルーシチュクへ行くつもりです。あすこにはわたしどもの仲間が大ぜい住んでおりますからね。追手に見つかる心配はありませんし、お金もたしかに自分のを持っています。一晩泊めて下されば金一枚をさし上げますし、婚礼させて下されば金三枚を奉納いたします。お差支えなくば婚礼させて頂きたいのですが、それが駄目なら、フルーシチュクへ行ってから一緒になります。」
 坊さんはそれを遮って、――
「いやいや、なんの差支えがあるものかな? わしがして上げましょう。わざわざあのフルーシチュクなどで式を挙げるには及ばんですわい。何もかも引っくるめて金五枚出しなされ――すればこの場で婚礼をさせて進ぜましょうて。」
 そこでアルカージイは坊さんに小判を五枚わたし、わたしはわたしで、『緑柱石の耳輪』をはずして奥さんに上げました。
 坊さんは受納して、またこう言いました、――
「いやいや、愛児たちよ、なんの造作もないことですわい、――わしはこれまでに、もっとずんと難儀なお人たちを一緒にして上げたこともあるでな。ただこの度はたと当惑したのは、あんたがたが例の伯爵の持物だということですわい。いかにわしが坊主であるとはいえ、あの人の残忍非道の仕打ちはやはり空恐ろしいでな。いやいや、何ごとも神のみ心のままじゃ、――ものはついでじゃ、もう半枚なり何なり奮発してその上で身を匿しなされ。」
 アルカージイが六枚目の小判をまるまる坊さんの手に渡すと、坊さんは奥さんに向ってこう言いました、――
「何をあっけらかんとしておるのじゃ、婆さんや? その逃げて来た娘さんに、洗いざらしでもよいわい、何かお前の下裳と胴着かなんぞを、出して上げなされや。そのままでは、こうして見るさえこっちの気が引けるわ――なにせ丸はだか同然の姿じゃからなあ。」
 それからわたしたちを本堂へ連れて行って、そこにある袈裟入れの長持の中に匿そうという手筈になりました。ところが、奥さんが間仕切りのかげでわたしに着物を着せにかかったかと思うと、突然おもての戸の輪金を誰かががちゃりと鳴らしたのです。

      ※[#ローマ数字13、184−2]

 わたしたちは二人とも、ひやりと胸が凍りつく思いでした。すると神父さんは、アルカージイの耳へひそひそ声で、――
「いや、愛児よ、こうなってはもう、袈裟びつの中へ匿れるひまはない。早々あの羽根ぶとんの下へもぐりなされ。」
 それからわたしには、――
「してあんたは、早くこっちへな。」
 そのままわたしを大時計の箱の中へ連れこみ、そこへ坐らせて錠をおろすと、鍵をポケットに入れて、新来のお客さんたちのため戸をあけに行きました。人声から察するところ、よほどの人数らしく、戸口に立っているのもある一方、二人の男はもう窓ごしに中を覗きこんでいるのでした。
 はいって来た七人の男は、みんな伯爵の狩のお供をする勢子《せこ》の面々で、手に手に分銅のついた棍棒だの、長い鞭だのをもち、腰帯には犬綱をさげています。八人目のもう一人の男は、伯爵家の家令で、高々と立襟のついた長い狼の毛皮外套を着ています。
 わたしの匿れていた箱は、正面の側だけ一面にこまかい格子組みになっていて、古い薄手のモスリンが張ってあるので、そのモスリン越しに外が覗けたのです。
 ところで年寄りの坊さんは、風向きの悪さに怖気がついたのでしょうか、がくがく総身をふるわしながら家令の前に立って、しきりに十字を切っては早口な頓狂声で、――
「いやはや、どうも皆さん、どうもはや! 分っています、分っていますよ、何を捜しに見えたのかは。ですがな、わしはその、伯爵閣下にたいして、なんの疚《やま》しいところもないですわい。神明に誓って、疚しいことはありませんわい。断じてその、ありませんわい!」
 そう言いながら十字を切るたんびに、左肩ごしに指先でもって、わたしの閉じこめられている時計箱をさすのです。
『もう駄目だ』とわたしは、坊さんの奇怪な振舞いを見て観念の眼をとじました。
 家令もその合図に気がついて、こう言うのです、――
「わしらはすっかり知ってるのだぞ。早くあの時計の鍵を出すがいい。」
 すると坊さんはまた片手を振りながら、――
「いやはや皆さん、どうもはや! お赦しなされ、御免なされ。その鍵をどこへ仕舞ったものやら、とんと失念しましたわい。ほんとにその、失念も失念、とんと忘れましたわい。」
 そう言いながら、残る片手でしきりにポケットの上を撫でるのです。
 家令はこの謎にも感づいて、鍵を坊さんのポケットから取りだすと、わたしの戸をあけました。
「出てくるんだ」と言います、――「この片割れめが。こうなりゃ相手の男は、自分から名乗って出ようさ。」
 いかにもアルカーシャは、ぬっと姿を現わしました。坊さんの掛けぶとんを床《ゆか》へかなぐり捨てて、すっくとそこへ立ったのです。
「いや、こうなっちゃもう」と言うのです、――「万事おしまいだ。お前さんたちの勝だよ。さっさとおれを連れてって、お仕置きになり何になりするがいいや。だがね、この女にゃ何一つ罪はねえぜ。おれが無理矢理かどわかしたんだからな。」
 そして坊さんの方へくるりと向き直ると、したことはたった一つ、その顔へペッと唾を吐きかけただけでした。
 坊さんが言うには、――
「いやどうも皆さん、これは一たい何事ですかな。聖職と信仰とにたいする何たる侮辱でしょうかな? これは一つ伯爵閣下に御報告ねがいたいものですな。」
 家令はそれに答えて、――
「いや、案ずることはない。それもこれも、こいつの身に報いるのだからな」と言うと、わたしたち二人を引いて行けと下知しました。
 わたしたち一行は、三台の橇に分れて乗りました。先頭の橇には縛りあげられたアルカージイが勢子にかこまれて乗り、わたしも同様の厳重な見張りのもとに殿りの橇に乗り、まん中の橇には余った連中が乗ったのです。
 途で行きあう村びとたちは、脇へよけてくれました。婚礼かと思ったのかも知れません。

      ※[#ローマ数字14、187−6]

 帰りはあっと思うひまもないほどの早さでした。伯爵のお屋敷へ乗り入れた時には、アルカーシャを乗せた橇はもう影も形も見えず、わたしは早速いつもの席へ坐らされて、たてつづけの糾問ぜめでした。一体どれほどの時間アルカージイと二人っきりでいたか、というのです。
 わたしは誰に向っても、
「いいえ、ちっとも!」と返事をしました。
 さてそこで、わたしが背負って生まれたもの、それも可愛さ余って今では憎らしくて堪らぬ人と一緒に背負って生まれたその運命は、しょせん逃れるすべもなかったのです。で、わたしが小部屋へ帰ってきて、わが身の不運を泣いて泣いて泣きつくしてしまおうと、頭を枕に埋めたとたんに、床《ゆか》の下から怖ろしい呻き声が聞えて来たのでした。
 芝居小屋の間どりは、こんなふうになっていました。――その木造の建物のなかで、わたしたち女の子は二階に住処《すみか》をあてがわれ、すぐその下は天井の高い大きな部屋で、わたしたちの歌や踊りの稽古場になっていたのですが、そこの物音は上の部屋へ筒抜けに聞えるのでした。さだめし地獄の大王サタンが入れ知恵したものに違いありません――無慈悲非道なお仕置き役たちがあのアルカーシャを責めさいなむのが、ほかならぬわたしの部屋の真下なのですからね。……
 あれはあの人が責められているのだと、とっさに感づいたわたしは、むっくり跳ね起きざま……現場へ駈けつけようと……ドアに体当りをしましたが……しっかり錠がおりています。……どうしようというのか、自分でも分りません……ばったり倒れると、床べたでは尚更よく聞えます。しかも小刀一挺、釘一本――胸を突こうにも喉を突こうにも、死ぬ手だては何一つないのです。わたしは自分の垂髪《おさげ》をぐいと握って、それで縊れようとしました。……喉へ捲きつけて、ぐいぐい締めあげてゆくと、だんだん耳に音が聞えるだけになって、眼のなかにぐるぐる輪が幾つも※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りだし、やがて気が遠くなってしまいました。……
 やがてわたしがそろそろ正気に返りはじめたのは、見たこともない場所で、広々と明るい小屋のなかでした。……おまけにそこには仔牛がいるのです……なん匹もなん匹も、十匹あまりもいるのです。――それがみんな可愛らしい仔牛でね、そばへ寄って来ては、ひやりとする唇で手をなめるんですよ。きっとお母さんのおっぱいでも吸う気でいるのでしょう。……実はわたしが目を覚ましたのも、くすぐったくなったからなのでした。……あたりをぐるりと見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しながら、おやどこかしらと思いました。見ていると、女の人が一人はいって来ました。脊の高い中婆さんで、縞のはいった空色の麻服にすっぽり身をくるみ、おなじく縞入りの麻のプラトークを頭にかぶって、親切そうな顔をしています。
 女の人は、わたしが正気づいたのを見てとると、慰めの言葉をかけてくれたり、今わたしのいるのはやはり伯爵のお屋敷うちにある仔牛小屋だと、教えてくれたりしました。……『それはね、ほらあの辺にあったのですよ』と、リュボーフィ・オニーシモヴナはここで註訳を入れて、半ば崩れ落ちている灰色の塀の一ばん向うの隅の方角を、片手でさし示すのだった。

      ※[#ローマ数字15、189−10]

 彼女が牛小屋なんかに入れられたのは、ひょっとすると気違いみたいなものになったのではあるまいかと疑われたからだった。そんなふうに畜生じみて来た人間は、牛小屋へ入れて試して見ることになっていた。というのは、牛飼いというものは元来が年の入った、物に動じない連中なので、精神病の「鑑定」には打ってつけだとされていたからである。
 リュボーフィ・オニーシモヴナが正気に返った小屋を受持っていた縞服の婆さんは、とても親切な女で、ドロシーダという名前だった。
 ――そのお婆さんは、夕方の身仕舞いをしてしまうとね(と、乳母は物語をつづけた――)、自分で新しいカラス麦の藁でもって、わたしの寝床を作ってくれました。それをまるで羽根ぶとんのように、ふんわり敷いてくれると、こんなことを言いだしたのです。――
「なあ娘さんや、今は何も包みかくさず、あんたに話してあげようね。あんたのことはまああんたのこととしてさ、このわたしだってやっぱりお前さんと同じように、生まれてからこの日まで何も縞の着物一つで押し通したわけでもないのさ。わたしだってわたしなりに、ほかの暮らしを見も聞きもしたっけが、桑原桑原、今さら思い出したところで始まらないよ。ただあんたに言っておきたいのはね、こうして牛小屋なんぞへ送られて来ても、決して自棄《やけ》なんか起してはいけないよ。送られて来た方が結句ましなのさ。ただね、この怖ろしい水筒にだけは気をつけなされよ……」
 そう言うと、首に巻いたプラトークの中から、白っぽいガラスの小壜を出して見せてくれました。
 わたしが、
「それは何ですか?」と聞くと、
 婆さんは、
「これがその怖ろしい水筒なのよ。なかには憂さを忘れる毒がはいっているのさ」と答えます。
 わたしがそこで、
「わたしにもその憂さを忘れる毒を下さい。何もかも忘れてしまいたいのです」と言うと、
 婆さんが言うには、――
「飲むんじゃないよ、これは火酒《ヴォートカ》なのさ。いつぞやわたしは、自分で自分の締めくくりがつかなくなって、飲んじまったのよ……親切な人がくれたものでね。……今じゃもう我慢がならない――飲まずにゃいられなくなっちまったのさ。だがね、お前さん
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