今でもこうして目をつぶると、わたしはありありとあの乳母の姿を目に見、その声を耳に聞く思いがするのである。夜がふけて家じゅうが寝しずまると、毎晩のように乳母は、骨の節ひとつ鳴らさぬように用心しいしい、そっと寝床に半身をおこす。しばらくじっと聴き耳を立ててから、やがて起きだすと、例の細長いリューマチの脚を忍ばせて、小窓の方へ行く。……やや暫したたずんで、あたりをうかがい、またも聴き耳をたてる。寝部屋からママが出て来はしまいかと案じるのである。それから、やおら例の『水筒』の頸をカチリと歯に当てると、呼吸をはかって「一杯やる」のであった。ぐびり、またぐびり、またもう一ぺん。……そんなふうに炭火をしめして、アルカーシャの追善をすると、ふたたび寝床へかえってゆく。――そうして毛布の下へもぐりこむと、まもなく静かに、じつに静かに、フュー・フュー、フュー・フュー、フュー・フューと寝息を立てはじめる。そしてぐっすり寝入ってしまうのだ!
 何が怖ろしいといって、これほど凄惨な、胸の底まで掻きむしられるような追善供養を、わたしはこの年になるまで見たことがない。



底本:「真珠の首飾り 他二篇」岩波文庫、
前へ 次へ
全55ページ中54ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング