、とんと忘れましたわい。」
そう言いながら、残る片手でしきりにポケットの上を撫でるのです。
家令はこの謎にも感づいて、鍵を坊さんのポケットから取りだすと、わたしの戸をあけました。
「出てくるんだ」と言います、――「この片割れめが。こうなりゃ相手の男は、自分から名乗って出ようさ。」
いかにもアルカーシャは、ぬっと姿を現わしました。坊さんの掛けぶとんを床《ゆか》へかなぐり捨てて、すっくとそこへ立ったのです。
「いや、こうなっちゃもう」と言うのです、――「万事おしまいだ。お前さんたちの勝だよ。さっさとおれを連れてって、お仕置きになり何になりするがいいや。だがね、この女にゃ何一つ罪はねえぜ。おれが無理矢理かどわかしたんだからな。」
そして坊さんの方へくるりと向き直ると、したことはたった一つ、その顔へペッと唾を吐きかけただけでした。
坊さんが言うには、――
「いやどうも皆さん、これは一たい何事ですかな。聖職と信仰とにたいする何たる侮辱でしょうかな? これは一つ伯爵閣下に御報告ねがいたいものですな。」
家令はそれに答えて、――
「いや、案ずることはない。それもこれも、こいつの身に報いるのだからな」と言うと、わたしたち二人を引いて行けと下知しました。
わたしたち一行は、三台の橇に分れて乗りました。先頭の橇には縛りあげられたアルカージイが勢子にかこまれて乗り、わたしも同様の厳重な見張りのもとに殿りの橇に乗り、まん中の橇には余った連中が乗ったのです。
途で行きあう村びとたちは、脇へよけてくれました。婚礼かと思ったのかも知れません。
※[#ローマ数字14、187−6]
帰りはあっと思うひまもないほどの早さでした。伯爵のお屋敷へ乗り入れた時には、アルカーシャを乗せた橇はもう影も形も見えず、わたしは早速いつもの席へ坐らされて、たてつづけの糾問ぜめでした。一体どれほどの時間アルカージイと二人っきりでいたか、というのです。
わたしは誰に向っても、
「いいえ、ちっとも!」と返事をしました。
さてそこで、わたしが背負って生まれたもの、それも可愛さ余って今では憎らしくて堪らぬ人と一緒に背負って生まれたその運命は、しょせん逃れるすべもなかったのです。で、わたしが小部屋へ帰ってきて、わが身の不運を泣いて泣いて泣きつくしてしまおうと、頭を枕に埋めたとたんに、床《ゆか》
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