人の心配そうな話しごえばかりで、しょっちゅう何かを待ち構えている様子でしたが、――分ったのはただ、『追っかけて来るぞ、追っかけてくるぞ、急げ、急げ!』ということばかりで、あとはさっぱり五里霧中でした。
アルカージイ・イリイーチは、わたしが正気づきはじめたのを見ると、ぐいと屈みこんでこう言うのです、――
「ねえ、可愛いリューブシカ! おれたちには追手がかかってるんだ……いよいよ駄目となったら、一緒に死んでくれるかい?」
わたしは、それどころか喜んで死にます、と答えました。
あの人のめざす逃げ場所は、フルーシチュクというトルコ人部落でした。当時そこにはわたしたちの仲間が大ぜい、カミョンスキイの魔手をのがれて脱走していたのです。
と突然そのとき、わたしたちは氷の張ったどこかの小川を飛ぶように越して、行手には何やら人家のようなものが、薄ぼんやりと見えてき、犬が吠えだしましたが、馭者は一層はげしく馬に鞭をくれたかと思うと、いきなり橇の片側へ身を横倒しにしたから堪りません、ぐいと橇がかしいだ拍子に、わたしはアルカージイもろとも雪の中へ投げ出されてしまい、馭者も橇も三頭の馬も、あっというまに見えなくなってしまいました。
アルカージイが言うには、
「心配することはちっともないんだよ、こうなるのが当然なのさ。何しろあの馭者は、とにかく乗せて来てくれはしたものの、こっちも向うを知らず、向うもこっちを知らないんだ。小判三枚でお前さんを運び出すのに一肌ぬいでくれたんだが、自分まで巻き添えになっちゃ堪らないからなあ。さあこれからは、おれたちの運否天賦だ。あすこに見えるのは痩雌鷲《やせめわし》村なんだが、あの村には度胸のすわった坊さんがいて、命がけの婚礼に立会いもすれば、おれたちの仲間を大ぜい世話してくれもしたのだよ。あの坊さんにお賽銭を上げりゃ、夕方までおれたちを匿まってくれて、婚礼もやってくれるだろう。夕方になりゃ、またあの馭者がやって来て、まんまと行方をくらますことができようというものさ。」
※[#ローマ数字12、1−13−55]
わたしたちはその家の戸を叩いて、玄関へあがって行きました。戸をあけてくれたのは当の坊さんで、これはずんぐりした年寄りで、前歯が一本かけていました。その奥さんというお婆さんは、ふうふう火を起してくれました。わたしたちは、この御夫婦の足
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