ンドレイ、エヒミチはアツと云《い》つたまゝ、緑色《みどりいろ》の大浪《おほなみ》が頭《あたま》から打被《うちかぶ》さつたやうに感《かん》じて、寐臺《ねだい》の上《うへ》に引《ひ》いて行《ゆ》かれたやうな心地《こゝち》。口《くち》の中《うち》には鹽氣《しほけ》を覺《おぼ》えた、大方《おほかた》齒《は》からの出血《しゆつけつ》であらう。彼《かれ》は泳《およ》がんと爲《す》るものゝやうに兩手《りやうて》を動《うご》かして、誰《たれ》やらの寐臺《ねだい》にやう/\取縋《とりすが》つた。と又《また》も此時《このとき》振下《ふりおろ》したニキタの第《だい》二の鐵拳《てつけん》、背骨《せぼね》も歪《ゆが》むかと悶《もだ》ゆる暇《ひま》もなく打續《うちつゞい》て、又々《また/\》三|度目《どめ》の鐵拳《てつけん》。
イワン、デミトリチは此時《このとき》高《たか》く叫聲《さけびごゑ》。彼《かれ》も打《ぶ》たれたのであらう。
其《そ》れよりは室内《しつない》復《また》音《おと》もなく、ひツそり[#「ひツそり」に傍点]と靜《しづま》り返《かへ》つた。折《をり》から淡々《あは/\》しい月《つき》の光《ひかり》、鐵窓《てつさう》を洩《も》れて、床《ゆか》の上《うへ》に網《あみ》に似《に》たる如《ごと》き墨畫《すみゑ》を夢《ゆめ》のやうに浮出《うきだ》したのは、謂《いは》ふやうなく、凄絶《せいぜつ》又《また》慘絶《さんぜつ》の極《きはみ》で有《あ》つた、アンドレイ、エヒミチは横《よこ》たはつた儘《まゝ》、未《ま》だ息《いき》を殺《ころ》して、身《み》を縮《ちゞ》めて、もう一|度《ど》打《ぶ》たれはせぬかと待《まち》構《かま》へてゐる。と、忽《たちま》ち覺《おぼ》ゆる胸《むね》の苦痛《くつう》、膓《ちやう》の疼痛《とうつう》、誰《たれ》か鋭《するど》き鎌《かま》を以《もつ》て、刳《ゑぐ》るにはあらぬかと思《おも》はるゝ程《ほど》、彼《かれ》は枕《まくら》に強攫《しが》み着《つ》き、きりゝ[#「きりゝ」に傍点]と齒《は》をば切《くひしば》る。今《いま》ぞ初《はじ》めて彼《かれ》は知《し》る。其有耶無耶《そのうやむや》になつた腦裏《なうり》に、猶《なほ》朧朦氣《おぼろげ》に見《み》た、月《つき》の光《ひかり》に輝《てら》し出《だ》されたる、黒《くろ》い影《かげ》のやうな此《こ》の室《へや》の人々《ひと/″\》こそ、何年《なんねん》と云《い》ふ事《こと》は無《な》く、恁《かゝ》る憂目《うきめ》に遭《あ》はされつゝ有《あ》りしかと、堪《た》へ難《がた》き恐《おそろ》しさは電《いなづま》の如《ごと》く心《こゝろ》の中《うち》に閃《ひらめ》き渡《わた》つて、二十|有餘年《いうよねん》の間《あひだ》、奈何《どう》して自分《じぶん》は是《これ》を知《し》らざりしか、知《し》らんとは爲《せ》ざりしか。と空《そら》恐《おそろ》しく思《おも》ふので有《あ》つたが、又《また》剛情《がうじやう》我慢《がまん》なる其良心《そのりやうしん》は、とは云《い》へ自《みづか》らは未《いま》だ嘗《かつ》て疼痛《とうつう》の考《かんが》へにだにも知《し》らぬので有《あ》つた、然《しか》らば自分《じぶん》が惡《わる》いのでは無《な》いのであると囁《さゝや》いて、宛然《さながら》襟下《えりもと》から冷水《ひやみづ》を浴《あ》びせられたやうに感《かん》じた。彼《かれ》は起上《おきあが》つて聲限《こゑかぎ》りに叫《さけ》び、而《さう》して此《こゝ》より拔出《ぬけい》でて、ニキタを眞先《まつさき》に、ハヾトフ、會計《くわいけい》、代診《だいしん》を鏖殺《みなごろし》にして、自分《じぶん》も續《つゞ》いて自殺《じさつ》して終《しま》はうと思《おも》ふた。が、奈何《どう》したのか聲《こゑ》は咽喉《のど》から出《い》でず、足《あし》も亦《また》意《い》の如《ごと》く動《うご》かぬ、息《いき》さへ塞《つま》つて了《しま》ひさうに覺《おぼ》ゆる甲斐《かひ》なさ。彼《かれ》は苦《くる》しさに胸《むね》の邊《あたり》を掻《か》き毟《むし》り、病院服《びやうゐんふく》も、シヤツも、ぴり/\と引裂《ひきさ》くので有《あ》つたが、施《やが》て其儘《そのまゝ》氣絶《きぜつ》して寐臺《ねだい》の上《うへ》に倒《たふ》れて了《しま》つた。
(十九)
翌朝《よくてう》彼《かれ》は激《はげ》しき頭痛《づつう》を覺《おぼ》えて、兩耳《りやうみゝ》は鳴《な》り、全身《ぜんしん》には只《たゞ》ならぬ惱《なやみ》を感《かん》じた。而《さう》して昨日《きのふ》の身《み》に受《う》けた出來事《できごと》を思《おも》ひ出《だ》しても、恥《はづか》しくも何《なん》とも感《かん》ぜぬ。昨日《きのふ》の小膽《せうたん》で有《あ》つ
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