ざう》を爲《し》たものだ。』と、院長《ゐんちやう》は思《おも》はず微笑《びせう》する。『では貴方《あなた》は私《わたくし》を探偵《たんてい》だと想像《さうざう》されたのですな。』
『左樣《さやう》。いや探偵《たんてい》にしろ、又《また》私《わたくし》に窃《ひそか》に警察《けいさつ》から廻《ま》はされた醫者《いしや》にしろ、何方《どちら》だつて同樣《どうやう》です。』
『いや貴方《あなた》は。困《こま》つたな、まあお聞《き》きなさい。』と、院長《ゐんちやう》は寐臺《ねだい》の傍《そば》の腰掛《こしかけ》に掛《か》けて責《せむ》るがやうに首《くび》を振《ふ》る。
『然《しか》し假《か》りに貴方《あなた》の云《い》ふ所《ところ》が眞實《しんじつ》として、私《わたくし》が警察《けいさつ》から廻《まは》された者《もの》で、何《なに》か貴方《あなた》の言《ことば》を抑《おさ》へやうとしてゐるものと假定《かてい》しませう。で、貴方《あなた》が其爲《そのため》に拘引《こういん》されて、裁判《さいばん》に渡《わた》され、監獄《かんごく》に入《い》れられ、或《あるひ》は懲役《ちようえき》に爲《さ》れるとして見《み》て、其《そ》れが奈何《どう》です、此《こ》の六|號室《がうしつ》にゐるのよりも惡《わる》いでせうか。此《こゝ》に入《い》れられてゐるよりも貴方《あなた》に取《と》つて奈何《どう》でせうか? 私《わたくし》は此《こゝ》より惡《わる》い所《ところ》は無《な》いと思《おも》ひます。若《も》し然《さ》うならば何《なに》を貴方《あなた》は那樣《そんな》に恐《おそ》れなさるのか?』
 此《こ》の言《ことば》にイワン、デミトリチは大《おほい》に感動《かんどう》されたと見《み》えて、彼《かれ》は落着《おちつ》いて腰《こし》を掛《か》けた。
 時《とき》は丁度《ちやうど》四|時過《じす》ぎ。毎《いつ》もなら院長《ゐんちやう》は自分《じぶん》の室《へや》から室《へや》へと歩《ある》いてゐると、ダリユシカが、麥酒《ビール》は旦那樣《だんなさま》如何《いかゞ》ですか、と問《と》ふ刻限《こくげん》。戸外《こぐわい》は靜《しづか》に晴渡《はれわた》つた天氣《てんき》である。
『私《わたくし》は中食後《ちゆうじきご》散歩《さんぽ》に出掛《でか》けましたので、些《ちよつ》と立寄《たちよ》りましたのです。もう全然《まるで》春《はる》です。』
『今《いま》は何月《なんぐわつ》です、三|月《ぐわつ》でせうか?』
『左樣《さよう》、三|月《ぐわつ》も末《すゑ》です。』
『戸外《そと》は泥濘《ぬか》つて居《を》りませう。』
『那樣《そんな》でも有《あ》りません、庭《には》にはもう小徑《こみち》が出來《でき》てゐます。』
『今頃《いまごろ》は馬車《ばしや》にでも乘《の》つて、郊外《かうぐわい》へ行《い》つたらさぞ好《い》いでせう。』と、イワン、デミトリチは赤《あか》い眼《め》を擦《こす》りながら云《い》ふ。『而《さう》して其《そ》れから家《うち》の暖《あたゝか》い閑靜《かんせい》な書齋《しよさい》に歸《かへ》つて……名醫《めいゝ》に恃《かゝ》つて頭痛《づつう》の療治《れうぢ》でも爲《し》て貰《も》らつたら、久《ひさ》しい間《あひだ》私《わたくし》はもうこの人間《にんげん》らしい生活《せいくわつ》を爲《し》ないが、其《それ》にしても此處《こゝ》は實《じつ》に不好《いや》な所《ところ》だ。實《じつ》に堪《た》へられん不好《いや》な所《ところ》だ。』
 昨日《きのふ》の興奮《こうふん》の爲《ため》にか、彼《かれ》は疲《つか》れて脱然《ぐつたり》して、不好不好《いやいや》ながら言《い》つてゐる。彼《かれ》の指《ゆび》は顫《ふる》へてゐる。其顏《そのかほ》を見《み》ても頭《あたま》が酷《ひど》く痛《いた》んでゐると云《い》ふのが解《わか》る。
『暖《あたゝか》い閑靜《かんせい》な書齋《しよさい》と、此《こ》の病室《びやうしつ》との間《あひだ》に、何《なん》の差《さ》も無《な》いのです。』と、アンドレイ、エヒミチは云《い》ふた。『人間《にんげん》の安心《あんしん》と、滿足《まんぞく》とは身外《しんぐわい》に在《あ》るのではなく、自身《じしん》の中《うち》に在《あ》るのです。』
『奈何云《どうい》ふ譯《わけ》で。』
『通常《つうじやう》の人間《にんげん》は、可《い》い事《こと》も、惡《わる》い事《こと》も皆《みな》身外《しんぐわい》から求《もと》めます。即《すなは》ち馬車《ばしや》だとか、書齋《しよさい》だとかと、然《しか》し思想家《しさうか》は自身《じしん》に求《もと》めるのです。』
『貴方《あなた》は那樣哲學《そんなてつがく》は、暖《あたゝか》な杏《あんず》の花《はな》の香《にほひ》のする
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