ふけつき》のことなどに就《つ》いて、彼《かれ》は頗《すこぶ》る異議《いぎ》を有《も》つてゐたが、其《そ》れと打付《うちつ》けて云《い》ふのも、院長《ゐんちやう》に恥《はぢ》を掻《か》かせるやうなものと、何《なん》とも云《い》はずにはゐたが、同僚《どうれう》の院長《ゐんちやう》アンドレイ、エヒミチを心祕《こゝろひそか》に、老込《おいこみ》の怠惰者《なまけもの》として、奴《やつ》、金計《かねばか》り溜込《ためこ》んでゐると羨《うらや》んでゐた。而《さう》して其後任《そのこうにん》を自分《じぶん》で引受《ひきう》け度《た》く思《おも》ふてゐた。

       (九)

 三|月《ぐわつ》の末《すゑ》つ方《かた》、消《き》えがてなりし雪《ゆき》も、次第《しだい》に跡《あと》なく融《と》けた或夜《あるよ》、病院《びやうゐん》の庭《には》には椋鳥《むくどり》が切《しき》りに鳴《な》いてた折《をり》しも、院長《ゐんちやう》は親友《しんいう》の郵便局長《いうびんきよくちやう》の立歸《たちか》へるのを、門迄《もんまで》見送《みおく》らんと室《しつ》を出《で》た。丁度《ちやうど》其時《そのとき》、庭《には》に入《はひ》つて來《き》たのは、今《いま》しも町《まち》を漁《あさ》つて來《き》た猶太人《ジウ》のモイセイカ、帽《ばう》も被《かぶ》らず、跣足《はだし》に淺《あさ》い上靴《うはぐつ》を突掛《つツか》けたまゝ、手《て》には施《ほどこし》の小《ちひ》さい袋《ふくろ》を提《さ》げて。
『一|錢《せん》おくんなさい!』
と、モイセイカは寒《さむ》さに顫《ふる》へながら、院長《ゐんちやう》を見《み》て微笑《びせう》する。
 辭《じ》することの出來《でき》ぬ院長《ゐんちやう》は、隱《かくし》から十|錢《せん》を出《だ》して彼《かれ》に遣《や》る。
『これは可《よ》くない』と、院長《ゐんちやう》はモイセイカの瘠《や》せた赤《あか》い跣足《はだし》の踝《くるぶし》を見《み》て思《おも》ふた。
『路《みち》は泥濘《ぬか》つてゐると云《い》ふのに。』
 院長《ゐんちやう》は不覺《そゞろ》に哀《あは》れにも、又《また》不氣味《ぶきみ》にも感《かん》じて、猶太人《ジウ》の後《あと》に尾《つ》いて、其禿頭《そのはげあたま》だの、足《あし》の踝《くるぶし》などを※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《みま
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