《びやうき》の類別法《るゐべつはふ》、診斷《しんだん》、治療《ちれう》の方法《はうはふ》、共《とも》に皆是《みなこれ》を過去《くわこ》の精神病學《せいしんびやうがく》と比較《ひかく》するならば、其《そ》の差《さ》はエリボルスの山《やま》の如《ごと》き高大《かうだい》なるものである。現今《げんこん》では精神病者《せいしんびやうしや》の治療《ちれう》に冷水《れいすゐ》を注《そゝ》がぬ、蒸暑《むしあつ》きシヤツを被《き》せぬ、而《さう》して人間的《にんげんてき》に彼等《かれら》を取扱《とりあつか》ふ、即《すなは》ち新聞《しんぶん》に記載《きさい》する通《とほ》り、彼等《かれら》の爲《ため》に、演劇《えんげき》、舞踏《ぶたふ》を催《もよほ》す。
 彼《かれ》は又《また》恁《か》く思考《かんが》へた。
 現時《げんじ》の見解《けんかい》及《およ》び趣味《しゆみ》を見《み》るに、六|號室《がうしつ》の如《ごと》きは、誠《まこと》に見《み》るに忍《しの》びざる、厭惡《えんを》に堪《た》へざるものである。恁《かゝ》る病室《びやうしつ》は、鐵道《てつだう》を去《さ》ること、二百|露里《ヴエルスタ》の此《こ》の小都會《せうとくわい》に於《おい》てのみ見《み》るのである。即《すなは》ち此所《こゝ》の市長《しちやう》並《ならび》に町會議員《ちやうくわいぎゐん》は皆《みな》生物知《ゝまものし》りの町人《ちやうにん》である、であるから醫師《いし》を見《み》ることは神官《しんくわん》の如《ごと》く、其《そ》の言《い》ふ所《ところ》を批評《ひゝやう》せずして信《しん》じてゐる。例《たと》へば、溶解《ようかい》せる鉛《なまり》を口《くち》に入《い》るゝとも、少《すこ》しも不思議《ふしぎ》には思《おも》はぬであらう。が、若《も》し是《これ》が他《た》の所《ところ》に於《おい》ては如何《どう》であらうか、公衆《こうしゆう》と、新聞紙《しんぶんし》とは必《かなら》ず此《かく》の如《ごと》き監獄《バステリヤ》は、とうに寸斷《すんだん》にして了《しま》つたであらう。
『然《しか》し其《そ》れが奈何《どう》である。』
と、彼《かれ》はパツと眼《め》を開《ひら》いて自《みづか》ら問《と》ふた。
『防腐法《ばうふはう》だとか、コツホだとか、パステルだとか云《い》つたつて、實際《じつさい》に於《おい》ては世《よ》の中
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