にもあらずむら/\[#「むら/\」に傍点]と湧《わ》いて、自分《じぶん》も恁《か》く枷《かせ》を箝《は》められて、同《おな》じ姿《すがた》に泥濘《ぬかるみ》の中《なか》を引《ひ》かれて、獄《ごく》に入《いれ》られはせぬかと、遽《にはか》に思《おも》はれて慄然《ぞつ》とした。其《そ》れから町人《ちやうにん》の家《いへ》よりの歸途《かへり》、郵便局《いうびんきよく》の側《そば》で、豫《かね》て懇意《こんい》な一人《ひとり》の警部《けいぶ》に出遇《であ》つたが警部《けいぶ》は彼《かれ》に握手《あくしゆ》して數歩計《すうほばか》り共《とも》に歩《ある》いた。すると、何《なん》だか是《これ》が又《また》彼《かれ》には只事《たゞごと》でなく怪《あや》しく思《おも》はれて、家《いへ》に歸《かへ》つてからも一|日中《にちぢゆう》、彼《かれ》の頭《あたま》から囚人《しうじん》の姿《すがた》、銃《じゆう》を負《お》ふてる兵卒《へいそつ》の顏《かほ》などが離《はな》れずに、眼前《がんぜん》に閃付《ちらつ》いてゐる、此《こ》の理由《わけ》の解《わか》らぬ煩悶《はんもん》が怪《あや》しくも絶《た》えず彼《かれ》の心《こゝろ》を攪亂《かくらん》して、書物《しよもつ》を讀《よ》むにも、考《かんが》ふるにも、邪魔《じやま》をする。彼《かれ》は夜《よる》になつても燈《あかり》をも點《つ》けず、夜《よも》すがら眠《ねむ》らず、今《いま》にも自分《じぶん》が捕縛《ほばく》され、獄《ごく》に繋《つな》がれはせぬかと唯《たゞ》其計《そればか》りを思《おも》ひ惱《なや》んでゐるのであつた。
然《しか》し無論《むろん》、彼《かれ》は自身《じしん》に何《なん》の罪《つみ》もなきこと、又《また》將來《しやうらい》に於《おい》ても殺人《さつじん》、窃盜《せつたう》、放火《はうくわ》などの犯罪《はんざい》は斷《だん》じて爲《せ》ぬとは知《し》つてゐるが、又《また》獨《ひとり》つく/″\と恁《か》うも思《おも》ふたのであつた。故意《こい》ならず犯罪《はんざい》を爲《な》すことが無《な》いとも云《い》はれぬ、人《ひと》の讒言《ざんげん》、裁判《さいばん》の間違《まちがひ》などは有《あ》り得《う》べからざる事《こと》だとは云《い》はれぬ、抑《そもそ》も裁判《さいばん》の間違《まちがひ》は、今日《こんにち》の裁判《さいばん》
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