靈魂不死《れいこんふし》を信《しん》じてゐるのを思《おも》ひ出《だ》し、若《も》し那樣事《そんなこと》が有《あ》つたらばと考《かんが》へたが、靈魂《れいこん》の不死《ふし》は、何《なに》やら彼《かれ》には望《のぞ》ましくなかつた。而《さう》して其考《そのかんが》へは唯《たゞ》一|瞬間《しゆんかん》にして消《き》えた。昨日《きのふ》讀《よ》んだ書中《しよちゆう》の美《うつく》しい鹿《しか》の群《むれ》が、自分《じぶん》の側《そば》を通《とほ》つて行《い》つたやうに彼《かれ》には見《み》えた。此度《こんど》は農婦《ひやくしやうをんな》が手《て》に書留《かきとめ》の郵便《いうびん》を持《も》つて、其《そ》れを自分《じぶん》に突出《つきだ》した。何《なに》かミハイル、アウエリヤヌヰチが云《い》ふたので有《あ》るが、直《すぐ》に皆《みな》掻消《かきき》えて了《しま》つた。恁《か》くてアンドレイ、エヒミチは永刧《えいごふ》覺《さ》めぬ眠《ねむり》には就《つ》いた。
 下男共《げなんども》は來《き》て、彼《かれ》の手足《てあし》を捉《と》り、小聖堂《こせいだう》に運《はこ》び去《さ》つたが、彼《かれ》が眼《め》未《いま》だ瞑《めい》せずして、死骸《むくろ》は臺《だい》の上《うへ》に横臥《よこたは》つてゐる。夜《よ》に入《い》つて月《つき》は影暗《かげくら》く彼《かれ》を輝《てら》した。翌朝《よくてう》セルゲイ、セルゲヰチは此《こゝ》に來《き》て、熱心《ねつしん》に十|字架《じか》に向《むか》つて祈祷《きたう》を捧《さゝ》げ、自分等《じぶんら》が前《さき》の院長《ゐんちやう》たりし人《ひと》の眼《め》を合《あ》はしたので有《あ》つた。
 一|日《にち》を經《へ》て、アンドレイ、エヒミチは埋葬《まいさう》された。其《そ》の祈祷式《きたうしき》に預《あづか》つたのは、唯《たゞ》ミハイル、アウエリヤヌヰチと、ダリユシカとで。



底本:「明治文學全集 82 明治女流文學集(二)」筑摩書房
   1965(昭和40)年12月10日発行
   1989(平成元)年2月20日初版第5刷
底本の親本:「露國文豪 チエホフ傑作集」獅子吼書房
   1908(明治41)年10月
初出:「文藝界」
   1906(明治39)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を
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