しだした。ところがさっぱり駄目だった。間もなく彼は眠りに落ちてしまったが、彼が最後に考えたことは、誰かが自分を愛撫して喜ばせてくれたのだ、自分の生涯に何かしら並々ならぬ、馬鹿らしい、とはいえ頗るもって甘美なよろこばしい出来事があったのだ、ということだった。この想念は夢の中でも彼を離れなかった。
 彼が眼をさました時には、頸筋の香油を塗られたような気持や、唇のあたりの薄荷水を滴らしたようなすうすうした感じはもうなかったが、ぞくぞくするような嬉しさは昨夜と変りなく、胸の中に寄せつ返しつしていた。彼は悦びにうっとりしながら、さし昇る朝日を受けて金色に輝いている窓枠を眺めたり、往来に始まっている人や車の動きに耳を傾けたりした。すぐ窓の下で大きな話声がしていた。リャボーヴィチの隊の中隊長をしているレベデツキイが、今しがた旅団に追いついたところで、日ごろ物静かに話しつけない人だものだから、とても大きな声で部下の曹長を相手にしゃべっていた。
「まだ何かあるか?」と中隊長がどなった。
「昨日の蹄鉄打換えの際、中隊長殿、小鳩号《ゴープチノ》の蹄《ひずめ》を傷つけました。軍医補が醋酸を加えた粘土をつけてや
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