まだそのほかに二三の退屈な注意を与えると、将軍はロブィトコの顔に一瞥をくれて、にやりと笑った。
「それからロブィトコ中尉、君は今日ばかに沈んだ顔をしとるなあ」と彼は言った。「ロプーホヴァ夫人が恋しいかな? どうじゃ? なあ諸君、この男はロプーホヴァが恋しゅうてならんとさ!」
 ロプーホヴァというのは頗る肥った頗る背の長い婦人で、もうとうの昔に四十の坂を越していた。将軍は、自分が大柄な女さえ見れば年はどうあろうと食指を動かすたちだったものだから、部下の将校たちにも同様の好みがあるように勘ぐっているのだった。将校たちは恭しくにんまり笑った。旅団長は何はともあれ頗る滑稽な毒舌を一発くらわしたので嬉しくなって、からからと笑いだし、馭者の背中をちょいとつついておいて、挙手の礼をした。馬車は先へ進んでいった。……
『思えば、おれが現在空想しているようなこと、現在おれには有り得べからざる、到底この世のものではないように思われることの一切も、実のところは頗る平々凡々たる事柄にすぎんのだ』とリャボーヴィチは、将軍の馬車のあとを追っかけて行く濛々たる砂塵を眺めながら考えるのだった。『何もかも頗る平凡な、人間なら誰にもあることなのだ。……例えばあの将軍にしたって、若い頃には恋をして、現在じゃ女房もあれば子供もあるというわけだ。ヴァフテル大尉だってそうだ。あんなみっともない真赤な後頸《うしろくび》をして、胴中ときたらまるで四斗樽みたいなずんぐりもっくりなくせに、ちゃんと女房があって、おまけに大事にされている。……サーリマノフときたらあの通りのがさつ者で、おまけに韃靼《ダッタン》人のこちこちときているんだが、あの男にだって一場のロマンスがあって、まんまと恋女房を手に入れたのだ。……俺にしたってみんな同じ人間だ、晩《おそ》かれ早かれみんなと同じ経験をするに違いないんだ……』
 そして自分だって世間なみの人間だ、自分の生活だって世間なみなんだという想念で、彼は嬉しくなって勇気も出てきた。彼はもう思いっきり大胆に、例の女[#「例の女」に傍点]の面影や、やがて来るべき自分の幸福を心に描いて、なんの憚るところもなく想像の翼をひろげて行った。……
 やがて日暮れになって旅団が目的地に着いて、将校たちがてんでに天幕にはいって休息している頃、リャボーヴィチ、メルズリャコーフ、それにロブィトコの三人は、大トランクの周りに陣どって夜食をしていた。メルズリャコーフは悠然と口へ運んで、ゆっくりと咀嚼しながら、膝の上にひろげた『ヨーロッパ通報』を読んでいた。ロブィトコはのべつ幕なしに喋り立てながら、しきりにコップへビールを注ぎ足しているし、リャボーヴィチはというと、終日の空想のおかげで頭がぼんやりしていたので、黙りこくって飲んでいた。
 三杯目をあけると彼は早くも陶然となって、ぐったりしてしまい、それと同時に自分が新たに味わった感覚を、同僚に聞かせてやりたくって堪らなくなって来た。
「あのラッベクのところでね、僕は妙な事件にぶつかったんだがね……」と彼は、自分の声に冷静且つ皮肉な調子を帯びさせようと努力しながら、口をきった。「実は僕、撞球室へ行ったんだがね、すると……」
 彼は微に入り細を穿って、例の接吻の一件を語りだしたが、一分もするとぷっつり言葉が絶えてしまった。……つまりその一分間で彼は語り尽してしまったわけで、我ながらこの物語にたったそれだけの時間しかかからないことがひどく意外だった。この接吻の一件は、優に夜が明けるまで語りつづけられるような気がしていたのである。彼の話を聴き終ると、ロブィトコは何しろ自分が作り話の大家で、従って誰の話も信用しない男だものだから、疑わしそうに彼の顔を見て、にやりと笑った。メルズリャコーフは眉をぴくぴくさせると、相変らず『ヨーロッパ通報』から眼を離さずに、穏かにこう言った。――
「おかしな話だなあ!……声もかけずにいきなり首っ玉へかじりつくなんて。……てっきりそりゃあ何か精神病だぜ。」
「うん、てっきり精神病だね……」と、リャボーヴィチが同意した。
「そういや、それと同じ事件がいつか僕にもあったっけ……」とロブィトコは、眼をまるくして見せながら言った。「去年コヴノへ行った時の汽車の中の話だがね。……切符は二等にしたのさ。……車室《はこ》は大入り満員の盛況でね、眠ることなど思いも寄らん。そこで車掌に五十コペイカ玉をつかませた。……すると奴さん、僕の荷物を抱えてね、特別室《クペー》へ案内してくれたんだ。……で横になってね、すっぽり毛布にくるまった。……暗いんだよ、いいかい。すると不意に人の気配がして、誰かしら僕の肩先にさわってね、顔へ熱い息を吹きかけるんだ。僕はそこでこういう工合に片手を動かしてみると、誰かの肘にさわったじゃないか。……はっ
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