の脛当の役目を知っているので、彼には別に滑稽ともなんとも思えない。馬上の兵たち……いやしくもそこにいる限りの者は残らず、機械的に革鞭を振りあげたり、時おり大声を張りあげたりしている。御本尊の大砲にしてからが、みっともない恰好だった。砲の前車には燕麦の袋が積込まれて、それに防水布の覆いがかけてあるし、砲身はというと、べた一面に茶沸かしだの、兵隊の背嚢だの小嚢だのが吊り下げられて、その有様たるやさながらに、どうしたわけだか人間や馬にひしひしと取巻かれてしまっている小っちゃな無害の動物といった恰好である。砲の両側には、風しもの方から、両手をやけに振りながら、六人の砲手がのっしのっしと歩いている。その大砲のあとには、またもや別の前駆や、乗馬兵や、後馬の行列がはじまり、その後からまた別の、といっても最初の奴に劣らずみっともなくもあれば貧相でもある大砲が曳かれてゆく。この第二の砲のあとに第三、第四の砲がつづき、四番目の砲のまわりに将校その他が進んでゆく。旅団には中隊が全部で六個あり、中隊ごとに砲が四門ある。といった次第でこの行列は蜿々四五町にわたっているのだ。殿《しんが》りをつとめるのは輜重《しちょう》で、その傍にさも物思わしげに、ぴょんと長い耳のついた頭をうなだれながら歩いている、一匹の飛切り可愛らしい面つきの畜生があったが――これはマガールという驢馬で、或る中隊長がトルコから連れて来たものだった。
 リャボーヴィチは無関心な気持で前や後ろを見やり、後あたまや顔を眺めていた。いつもなら、こっくりこっくりやりだすところだが、今はそれどころではなく、例の新しい愉しい考えごとに耽り込んでいたのだ。最初、旅団が行進を起したばかりの頃は、彼は無理にも自分の心を説き伏せて、あの接吻の一件なんか、面白いにしたところで高々ちょいとした不思議な偶然の出来事だけの話で、本当はくだらん事なのだ、あれを真面目にとやかく考えるなんて、内輪に言ってもまず馬鹿げた話だわい、と思い込もうとしていた。ところが間もなく、彼はそんな理窟をきれいさっぱり振り棄てて、空想に身をゆだねてしまった。……自分がラッベク家の客間で、あの藤色の令嬢と黒服金髪の令嬢とを、半々に突きまぜたような少女と並んで坐っているところを想像に浮べてみたり、かと思うと今度は眼をつぶって、自分がそれとは別人の、ひどく眼鼻だちのはっきりしない、まるっきり見知らぬ少女と一緒にいるところを瞼に描いてみるといった調子で、心の中で話をしたり、愛撫したり、相手の肩へしなだれかかったり、さてはまた、戦争や別離や、その後の再会を思い描いたり、妻と水入らずの夜食の場面や、子供たちを想像してみたりした。……
「ブレーキをかけえ!」という号令が坂を下りるたびにひびき渡った。
 彼もやはり『ブレーキをかけえ』と呶鳴るのだったが、その都度、この叫びが自分の空想を破りはしまいか、自分を現実へ呼び戻しはしまいかとびくびくした。……
 ある地主の領地の傍を通りかかった時、リャボーヴィチは外周《そとまわ》りの植込みごしに庭を覗いてみた。彼の眼にうつったのは、長い、まるで定規みたいに真直な並木道で、それに黄色い砂が撒いてあり、白樺の若木が両側に植わっていた。……空想におぼれ込んだ人間に現われるあの執念ぶかさで、彼は婦人の小さな足がその黄色い砂を踏んで行くところを念頭に浮べてみたが、すると全く思いがけなく彼の想像裡には、例の自分に接吻した女の面影、ゆうべの夜食の席で彼がやっとこさで心に浮びあがらせたあの女の面影が、くっきりと描き出された。その面影は彼の脳裡におみこしを据えて、もはや二度と再び彼を見すてなかった。
 正午になると、後方の輜重のあたりで、こんな叫び声がきこえた。
「歩調とれえ! 頭ァ左! 将校敬礼っ!」〔[#割り注]この号令の前二句は兵卒に対するもの、最後の一句は将校に対するもの[#割り注終わり]〕
 二頭の白馬に曳かせた半幌の馬車で、旅団長が通りかかったのである。彼は第二中隊の辺で車をとめて、何やら大声を立てはじめたが、何を言ってるのか誰にもわからなかった。彼をめがけて数名の将校が馬を飛ばせた中に、リャボーヴィチもまじっていた。
「で、どうかな? ええ?」と将軍は訊ねながら、赤い眼をぱちぱちさせた。「病人はあるかな?」
 返答を耳にすると、小兵で痩せっぽちの将軍はちょいと口をもぐもぐさせて、何やら思案していたが、やがて一人の将校に向ってこう言った。――
「君の隊の第三砲車の後馬に乗っとる兵は、脛当を外しおってな、所もあろうに前車にぶら下げておるぞ、怪しからん。あいつは処罰したまえ。」
 それから眼を上げて、リャボーヴィチの顔にぴたりとつけると、言葉をつづけた。――
「それから君の乗馬の鞦《しりがい》は、どうも長すぎるようだぞ……」
前へ 次へ
全12ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
チェーホフ アントン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング