がいかにも闊達な愛嬌たっぷりの笑顔だったもので、相手は思わず足をとめて、怪訝《けげん》そうに彼の顔をまじまじと眺めた。
「どうもお宅がおそろしく気に入っちまいまして!……」彼は眼鏡を直し直しそう言った。
 将軍夫人はにっと笑って、この邸はまだ彼女の父親の持物になっていると話してきかせ、さて話頭を転じてあなたの御両親はまだ御存命か、軍隊のほうにはもう永らくお勤めか、どうしてそんなに痩せていらっしゃるのか、などと問いかけた。自分の問いに対する返事が一通り済むと、彼女はそのまま向うへ行ってしまったが、彼のほうでは奥さんと言葉を交してからは一段と愛想よくにこにこしはじめて、今夜の俺はなんて飛切り上等の人たちに取巻かれているんだろうと考えていた。……
 夜食の卓についたリャボーヴィチは、すすめられる料理を片っぱしから機械的に平らげ、飲物もぐいぐいと飲んで、人の話なんぞはてんで耳へ受けつけずに、つい先刻の事件をなんとか自分の得心のゆくように説明をつけてみようと一所懸命になっていた。……なるほどあの事件は、神秘的なロマンティクな性質を帯びてはいるけれど、さりとて解釈をつけるのは別に難事ではなかった。察するところどこかのお嬢さんか奥さんが、あの真暗な部屋で誰かと逢引の約束をして、長いこと待たされた挙句に神経がいらいらしてしまって、ついリャボーヴィチを当の相手と思い込んだものに違いない。ましてやリャボーヴィチは、あの暗い部屋を通り抜ける途中で、思案に暮れて立ちどまった、つまりこっちもやはり、何かを待ち設ける人のような様子をしたのであってみれば、この想像はますます的確さを加えるといわなければならない。……と、そんな工合にリャボーヴィチは、例の接吻をわれとわが心に説明した。
『だがいったいどれだろうな、あの女は?』と彼はいならぶ婦人の顔をじろじろ見ながら考えた。『とにかく若い女に違いあるまいて、年寄りは逢引なんかしないからな。おまけに、あの女がちゃんと教養のそなわった婦人だということは、その衣ずれの音からも、あの匂いからも、あの声音からもわかることだ……』
 彼は例の藤色の令嬢にふと眼をとめたが、するとこのお嬢さんがすっかり気に入ってしまった。彼女は美しい肩と腕の持主で、それに才気の溢れる顔つきで、えもいわれぬ声をしていた。リャボーヴィチは、このお嬢さんを眺めているうちに、余人ならぬまさ
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