がいそうだ。……わたしを笑ってちょうだい、ばかなんですもの。……なつかしい、わたしの本棚《ほんだな》……(戸棚にキスする)わたしの小っちゃなテーブル……
ガーエフ お前の留守のまに、乳母《ばあや》が死んだよ。
ラネーフスカヤ (腰をおろし、コーヒーを飲む)ええ、天国にやすらわんことを。知らせをもらいました。
ガーエフ それに、アナスターシイも死んだ。やぶにらみのペトルーシカは、うちから暇をとって、今じゃ町の署長のところにいる。(ポケットから氷砂糖の小箱を取りだし、しゃぶる)
ピーシチク わしの娘のダーシェンカが……よろしくと申しました……
ロパーヒン わたしはあなたに、何かとても愉快な、楽しい話がしたいのですが……(時計を出して見る)そろそろ発《た》たなければならんので、おしゃべりをしているひまがありません……でまあ、ごくかいつまんで申しあげます。すでにご承知のとおり、お宅の桜の園は借財のカタで売りに出ておりまして、八月の二十二日が競売の日になっています。しかし、ご心配はいりません、奥さん、どうぞ、ご安心ねがいたい、打つ手はあります。……そこでわたしの案をよく聴いていただきたいのですが! あなたの領地は、町からわずか五里のところにあって、しかもついそばを鉄道が開通しました。でもし、この桜の園と川沿いの土地一帯を、別荘向きの地所に分割して、それを別荘人種に貸すとしたら、あなたはいくら内輪に見積っても、年《ねん》に二万五千の収入をおあげになれるわけです。
ガーエフ 失礼だが、つまらん話だな!
ラネーフスカヤ あなたのお話、どうもよくわからないわ、ロパーヒンさん。
ロパーヒン つまり別荘人種から、三千坪に対して最低年二十五ルーブリの割で、地代をとり立てられるわけです。もし今すぐに広告なされば、このわたしが保証しますが、秋になるまでには一っかけらの空地も残さず、みんな借り手がつきますよ。早い話が万歳です、お家ご安泰というわけです。何しろ場所がらは絶好だし、川は深いし。ただ、もちろん、そこらをちょっと掃除したり、片づけたりはしなければなりません……例えばまあ、古い建物はみんな取払ってしまう。さしずめこの屋敷なんか、もうなんの役にも立ちませんからね。それに、古い桜の園なんかも伐《き》り払ってしまう……
ラネーフスカヤ 伐り払うですって? まああなた、なんにもご存じないのねえ。この県のうちで、何かしらちっとは増しな、それどころかすばらしいものがあるとすれば、それはうちの桜の園だけですよ。
ロパーヒン そのすばらしいというのも、結局はだだっぴろいだけの話です。桜んぼは二年に一度なるだけだし、それだって、やり場がないじゃありませんか。誰ひとり買手がないのでね。
ガーエフ 『百科事典』にだって、この庭のことは出ている。
ロパーヒン (時計をのぞいて)これといった思案も浮ばず、なんの結論も出ないとなると、八月の二十二日には、桜の園はむろんのこと、領地すっかり、競売に出てしまうのですよ。思いっきりが肝腎《かんじん》です! ほかに打つ手はありません、ほんとです。ないとなったら、ないのですから。
フィールス 昔は、さよう四、五十年まえには、桜んぼを乾《ほ》して、砂糖づけにしたり、酢につけたり、ジャムに煮たりしたものだった。それから、よく……
ガーエフ 黙っていろ、フィールス。
フィールス それからよく、乾した桜んぼを、荷馬車に何台も積んで、モスクワやハリコフへ出したもんでござんしたよ。大したお金でしたわい! 乾した桜んぼだって、あの頃《ころ》は柔らかくてな、汁気《しるけ》があって、甘味があって、よい香りでしたよ。……あの頃は、こさえ方を知っていたのでな……
ラネーフスカヤ そのこさえ方が、今どうなったの?
フィールス 忘れちまいましたので。誰《だれ》も覚えちゃおりません。
ピーシチク (ラネーフスカヤ夫人に)パリはいかがでした? ええ? 蛙《かえる》をあがりましたか?
ラネーフスカヤ ワニを食べましたよ。
ピーシチク こりゃ、どうだ……
ロパーヒン 今まで田舎といえば、地主と百姓しかいませんでしたが、今日《こんにち》では別荘人種というものが現われています。どんな町でも、どんな小っぽけな町でも、ぐるり一めん別荘が建っています。このぶんでいくと、二十年もしたら、別荘人種はどえらい数になるでしょう。今でこそあの連中は、バルコンでお茶を飲むのがせいぜいですが、あに図らんややがては、あの連中もめいめい三千坪の地面で、農作をはじめるかも知れない。そのあかつきには、お宅の桜の園も、豪勢な、ゆたかな、地上の天国になるでしょう。
ガーエフ (憤慨して)じつにくだらん!

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ワーリャ、ヤーシャ登場。
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ワーリャ お母さま、電報が二通きていましたわ。(鍵束《かぎたば》をより分けて、音たかく古風な本棚をあける)ほら、これ。
ラネーフスカヤ パリからね。(ろくに読まずに、二通とも引裂く)パリとは、もう縁きりだわ……
ガーエフ ねえリューバ、知ってるかい、この本棚の歳《とし》をさ? ついこないだ、一ばん下の引出しを抜いて見たらばね、焼印で年号が押してあるんだ。ちょうど百年まえにできたんだよ。どうだい、ええ? さしずめ記念祭でももよおしたいところだよ。いくら命のないものにしろ、とにかくなんと言ったって、本棚にはちがいないんだからね。
ピーシチク (びっくりして)百年……。こりゃ、どうだ! ……
ガーエフ そう。大したもんさ。……(戸棚にさわってみて)親愛にして尊敬すべき戸棚よ! 今や百年以上にわたって、絶えず善と正義の輝かしい理想をめざして進んできた、君の存在に挨拶《あいさつ》を送る。みのり多き仕事へと招く君の無言の呼び声は、百年のあいだたゆむことなく、よく(涙ごえで)わが一家代々の人びとに、未来への勇気と信念を保持せしめ、われわれのうちに、善と社会的自覚の理想を涵養《かんよう》してくれた。(間)
ロパーヒン なるほど……
ラネーフスカヤ あなた相変らずねえ、兄さん。
ガーエフ (いささか照れて)右へ押して隅へ! 薄く当てて真ん中へスポリ!
ロパーヒン (時計を出して見て)どれ、行かなくては。
ヤーシャ (ラネーフスカヤ夫人に薬をさし出す)いかがでございます、丸薬をただ今召し上がっては……
ピーシチク 薬剤なんぞ、のむことはありませんよ、奥さん……毒にも薬にもなりゃしませんや。……まあひとつ……こっちへおよこしなさい。(丸薬を受けとり、手の平へあけて、ふっと吹いて口へほうりこみ、クワスでのみくだす)この通り!
ラネーフスカヤ (あきれて)まああなた、気でもちがったの?
ピーシチク 丸薬をすっかり頂きました。
ロパーヒン なんて大食《おおぐら》いだ! (一同わらう)
フィールス このかたは、復活祭の時おいでになって、キュウリを半たる召し上がりましたよ……(ぶつぶつ呟《つぶや》く)
ラネーフスカヤ 何を言ってるのかしら?
ワーリャ もう三年ごし、あんなふうにぶつぶつ言ってますの。わたしたち、馴《な》れてしまいました。
ヤーシャ ご老体ですからな。

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シャルロッタが白い服をきて、舞台をよこざる。すこぶる痩《や》せた体を、ぎゅっと緊《し》めあげるような着こなしで、バンドに柄《え》つき眼鏡をさげている。
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ロパーヒン どうも失礼、シャルロッタさん、まだご挨拶をしませんでしたね。(彼女の手にキスしようとする)
シャルロッタ (手を引っこめながら)あなたに手をキスさせたら、次には肘《ひじ》とおいでなさるでしょうよ、それから肩とね……
ロパーヒン どうも運が悪い、今日は。(一同わらう)シャルロッタさん、手品を見せてくださいよ!
ラネーフスカヤ ほんとにシャルロッタ、手品を見せてちょうだい!
シャルロッタ だめです。わたし眠いんですから。(退場)
ロパーヒン 三週間したらお目にかかります。(ラネーフスカヤ夫人の手にキスする)ではそれまで、ご機嫌《きげん》よう。もう時間です。(ガーエフに)ではまた。(ピーシチクとキスをかわして)さようなら。(まずワーリャと、ついでフィールス、ヤーシャと握手して)発ちたくないなあ。(ラネーフスカヤ夫人に)別荘の件をとっくりお考えになって、決心がおつきでしたら、ちょっとお知らせを願います。五万ルーブリは作って差しあげます。慎重にお考えください。
ワーリャ (腹だたしく)さ、いい加減でいらっしゃいよ!
ロパーヒン 行きます、行きますよ……(退場)
ガーエフ 下司め。いやこれは、ごめん《パルドン》。……ワーリャはあの男のところへ嫁《い》くんだっけな、あれはワーリャのムコさんだ。
ワーリャ おじさん、余計なこと言わないで。
ラネーフスカヤ なによ、ワーリャ、わたしそうなったら本当に嬉しい。あれは、いい人だもの。
ピーシチク 人物は、じつになんともはや……よくできた人で……。うちのダーシェンカも……やっぱりその、言っておりますよ……何やかやとな。(いびきをかいて、すぐまた目をさます)いや、それにしても奥さん……恐縮ですが貸してくださらんか……二百四十ルーブリだけ……あす担保の利子を払わにゃならんので……
ワーリャ (仰天して)だめよ、だめですよ!
ラネーフスカヤ わたし、ほんとに一文もないのよ。
ピーシチク なあに出てきますよ。(笑う)決して希望は捨てませんて。いつぞやも、いよいよ駄目だ、これで破滅だと観念したら、いや驚くまいことか、――鉄道がうちの地面を通ってね……金がころげこみましたよ。まあ見ててご覧なさい、また何かありますよ、今日でないまでも明日《あす》はね。ダーシェンカが二十万あてますよ……あれは富クジを一枚もってますでな。
ラネーフスカヤ コーヒーも飲んだから、これでもう休めるわ。
フィールス (ブラシでガーエフの服を払いながら、訓戒口調で)またズボンをお間違えになった。ほんとに困ったお人だ!
ワーリャ (小声で)アーニャは寝ているわ。(そっと窓をあける)もう日が出た、寒くないわ。ご覧なさい、お母さん、なんて見事な桜の木でしょう! すばらしいわ、この空気! ムク鳥が啼《な》いている!
ガーエフ (べつの窓をあける)庭いちめん真っ白だ。おまえ忘れやしないだろう、え、リューバ? この長い並木は、ずっとまっすぐ、まるで革帯をぴんと張ったように伸びて、月夜には白々と光るのだ。ね、覚えてるだろう? 忘れはしまいね?
ラネーフスカヤ (窓から庭を眺《なが》めて)ああ、わたしの子供のころ、清らかな時代! わたし、この子供部屋に寝て、ここから庭を眺めたものよ。あの頃は幸福が、毎朝わたしと一しょに目をさましたっけ。庭もこの通りだった、そっくりそのまま。(嬉しさのあまり笑う)真っ白、一めんに真っ白ね! ああ、わたしの庭! 暗い、うっとうしい秋や、寒い冬を越して、またお前は若々しく、幸福で一ぱいだわ。天使たちが、お前を見すてなかったのね。……ああ、わたしの胸や肩から、この重石《おもし》がとりのけられたら! わたしの過去を、きれいに忘れることができたら!
ガーエフ そう、だがこの庭も、借金のカタに売られてしまう。妙な話だが、仕方がない……
ラネーフスカヤ あら、ご覧なさい、亡《な》くなったお母さまが、庭を歩いてらっしゃるわ……白い服を召して! (嬉しさのあまり笑う)たしかにそうだわ。
ガーエフ どれ、どこに?
ワーリャ しっかりなすって、お母さん。
ラネーフスカヤ 誰もいない、気のせいだったわ。右手の、あずまやへ行く曲り角に、白い若木の垂れているのが、女の影に似てたんだわ……

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トロフィーモフ登場。着ふるした学生服をきて、眼鏡をかけている。
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ラネーフスカヤ ほんとにすばらしい庭! 花が真っ白にか
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