フスカヤ ええ。神経はだいぶ収まりました、それは本当よ。(召使の手から帽子と外套を受けとる)よく寝られるようになったし。わたしの荷物を運び出しておくれ、ヤーシャ。もう時間だわ。(アーニャに)それじゃアーニャ、近いうちに会いましょうね。……わたしはパリへ行って、ヤロスラーヴリのおばあさまが領地を買いもどせと送ってくだすった、あのお金で暮すつもり――おばあさまも、どうぞお達者でね! ――でも、あのお金だって、長くはもつまいよ。
アーニャ ママ、じきに帰ってらっしゃるんでしょう、じきに……ね、そうでしょう? わたしは、勉強して、女学校の検定試験をとおって、それから働いて、ママの暮しを助《たす》けるわ。そうしたらママ、一緒に色んな本を読みましょうね。……そうじゃなくて? (母の両手にキスする)ふたりで、秋の夜長に読みましょうね。どっさり読みましょうね。するとわたしたちの前に、新しい、すばらしい世界がひらけるんだわ。……(夢想する)ママ、帰ってらしてね……
ラネーフスカヤ 帰って来ますよ、可愛《かわい》いおまえのところへ。(娘を抱きしめる)
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ロパーヒン登場。シャルロッタはそっと小曲を歌っている。
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ガーエフ シャルロッタはいいなあ、歌なんか歌ってる!
シャルロッタ (くるまれた赤んぼのような格好をした包みをかかえて)わたしの赤ちゃん、ねんねんよう……(オギャア、オギャア! ……という泣き声がする)おお、よしよし、いい子、いい子。(オギャア! ……オギャア! ……)可哀《かわい》そうに、誰が誰が! (包みを元の場所へ投げだす)だからあなた、お願い、勤め口をさがしてちょうだいよ。これじゃ、どうしようもないわ。
ロパーヒン さがしたげますよ、シャルロッタさん、大丈夫です。
ガーエフ みんな、われわれを捨ててくんだな、ワーリャも行っちまうし……どうもとたんに、用なしの人間になっちまった。
シャルロッタ 町にはわたし、住むうちもないし。出てかなきゃならないわ。……(小曲を口ずさむ)どうせ同じことさ……
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ピーシチク登場。
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ロパーヒン よう、天然記念物! ……
ピーシチク (息を切らして)やれやれ、まあ一息つかしてください……へとへとだ。……皆さん、ご機嫌……。水をいっぱい……
ガーエフ どうせまた金のことだろう? 桑原桑原、まっぴらご免……(退場)
ピーシチク 久しくごぶさたしましたなあ……奥さん……(ロパーヒンに)君もいたのか……こいつは嬉しい……よう、天下一の知恵ぶくろ……取ってくれ……まあこれを。……(ロパーヒンに金を渡す)四百ルーブリだ……あとまだ八百四十、借りになってるが……
ロパーヒン (けげんそうに肩をすくめる)こりゃ夢のようだ。……一体どこで手に入れたんだね?
ピーシチク まあ待ってくれ……暑い……。前代未聞《ぜんだいみもん》の大事件なんだ。わしのところへイギリス人どもがやって来てね、地面から何か古い粘土を見つけたのさ。……(ラネーフスカヤ夫人に)あなたにも四百……な、天人のような奥さん。……(金をわたす)あとはまた後ほど。(水を飲む)今しがた、どこかの若い男が汽車の中で話しておったが、なんとかいう……偉大な哲学者は、屋根から飛びおりろ、と勧めておるそうだ……「飛びおりろ!」――それだけのことだ、とな。(仰天したように)こりゃどうだ! 水を一杯! ……
ロパーヒン イギリス人って、いったい何者かね?
ピーシチク とにかくその連中に、粘土の出る地面を向う二十四年間、貸したんだ。……ところで今は、申しわけないが暇がない……話の先を急ぐんでね。……これから、ズノイコフのところへ行く……それからカルダーモノフのところへもね。……みんな借りがあるのさ。……(飲む)ではこれで失礼。……木曜にまた伺います……
ラネーフスカヤ わたしたち、すぐこれから町へ引越して、あしたわたしは外国へ〔発《た》ちますの〕……
ピーシチク なんですと? (そわそわして)なぜまた町へなんぞ? いや、なるほどこうして見ると、家具だの……トランクだの……。なあに、平気ですよ。……(涙ごえで)大丈夫ですよ。……いやどうも、えらい知恵者ですなあ――あのイギリス人というやつは……。なあに大丈夫……どうぞお仕合せで……。なんでもありませんよ。……神さまが助けてくださいますとも……大丈夫ですよ。……この世のことは何ごとも終りありでしてな。……(ラネーフスカヤ夫人の手にキスする)もし風の便りにでも、このわたしに終りが来たという噂《うわさ》がお耳にはいったら、どうか、このそれ……馬のことを思いだして、「そうそう、昔あのなんとかいう奴……シメオーノフ=ピーシチクという男もいたっけな……安らかに昇天せんことを」とでも言ってください。……いや、すばらしい上天気ですなあ。……まったく……(へどもどして退場。が、すぐ引返してきて、ドアのところで)うちのダーシェンカが宜《よろ》しくと申しました! (退場)
ラネーフスカヤ さ、これでもう出かけられる。じつはわたし、発って行くのに、気がかりなことが二つあるの。一つは――病気のフィールス。(時計をのぞいてみて)まだ五分ほどいいわ……
アーニャ ママ、フィールスはもう病院へやったわ。ヤーシャがけさやったの。
ラネーフスカヤ もう一つの心配は――ワーリャのこと。あの子は、早起きをして働きつけてるものだから、今じゃ仕事がなくて、魚が水をはなれたも同然よ。痩《や》せて、顔色が悪くなって、可哀そうに泣いてばかりいるわ。……(間)あなたはそれを、よくご存じのはずね、ロパーヒンさん。わたしはこう思っていましたの……あの子をあなたのところへとね。それにあなたのほうでも、お見受けするところ、結婚なさりそうな模様でしたものね。(アーニャに耳うちする。アーニャはシャルロッタにうなずいて見せ、ふたり退場)あの子はあなたを愛していますし、あなたもあれがまんざらでもなさそうなのに、わからないわ、どうもわからない、なぜあなたがた二人は、おたがい避け合うようなふうをなさるのか。わからないわ!
ロパーヒン わたし自身も、じつはわからないんです。どうも何かこう妙な具合でしてね。……まだ時間があるようなら、わたしは今すぐでも結構です。……一気に片をつけて――あがりにします。あなたがいらっしゃらなくなると、どうもわたしは、申込みをしそうもありませんよ。
ラネーフスカヤ 願ったりですわ。一分もありゃ、じゅうぶんですものね。すぐあの子を呼びましょう。
ロパーヒン ちょうどシャンパンもあります。(小型グラスをすかして見て)おや、空《から》だ、誰かもう飲んじまった。(ヤーシャ咳払《せきばら》いをする)がぶ飲みとはこのことだ……
ラネーフスカヤ (いそいそと)結構だわね。わたしたちは向うへ……ヤーシャ、|おいで《アレ》! いま呼びますからね……(ドアの口へ)ワーリャ、そこはほっといて、こっちへおいで。さ、早く! (ヤーシャとともに退場)
ロパーヒン (時計をのぞいて)そう……(間)
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ドアの向うで忍び笑い、ひそひそ声、やがてワーリャ登場。
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ワーリャ (長いこと、あれこれと荷物を調べる)おかしいわ、どうしても見つからない……
ロパーヒン 何がないんですか?
ワーリャ 自分でしまいこんだくせに、覚えがないんですの。(間)
ロパーヒン あなたはこれからどうされます、ワルワーラ([#ここから割り注]訳注 ワーリャの正式の名[#ここで割り注終わり])さん?
ワーリャ わたし? ラグーリンのところへ行きます。……あすこの家政を見ることになりましたの……女の家令とでもいうのかしら。
ロパーヒン ではヤーシネヴォ村ですね? 七十キロもありますよ。(間)いよいよこの家の生活もおしまいになりましたね。……
ワーリャ (荷物を見まわしながら)どこへ行ったんだろう、あれは……もしかすると、長持へ入れたのかもしれない。……ええ、この家の生活もおしまいですわ……もう二度と返っては来ませんわ……
ロパーヒン わたしはこれからすぐ、ハリコフへ発ちます……この汽車でね。どうも仕事が多くてね。この屋敷うちには、エピホードフを置いておきます。……あの男を雇ったのでね。
ワーリャ あら、そう!
ロパーヒン 去年の今ごろは、もう雪がふっていました。おぼえておいでですか。ところが今は、おだやかで、日が照っています。ただ、寒いには寒いですな。……零下三度ぐらいでしょうな。
ワーリャ わたし見ませんでした。(間)それに、うちの寒暖計はこわれていますから……(間)
戸外の声 (ドアの口で)ロパーヒンさん! ……
ロパーヒン (とうからこの呼び声を待っていたかのように)ああ、今すぐ! (急いで退場)
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ワーリャは床に坐《すわ》って、衣服の包みに頭をのせ、静かにむせびなく。ドアがあいて、そっとラネーフスカヤ夫人がはいってくる。
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ラネーフスカヤ どうだったの? (間)もう行かなくちゃ。
ワーリャ (もう泣きやんでいて、眼をふく)ええ、時間ですわ、ママ。わたし今日のうちに、ラグーリンのところへ着けると思うわ。汽車に乗りおくれさえしなければね……
ラネーフスカヤ (ドアの口へ)アーニャ、支度はいいの?
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アーニャ、少しおくれてガーエフ、シャルロッタ登場。ガーエフは頭巾《ずきん》のついた暖かい外套《がいとう》を着ている。召使たちや馭者《ぎょしゃ》たちが集まる。エピホードフは荷物の世話をやく。
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ラネーフスカヤ さあ、もうこれで発てるわ。
アーニャ (嬉《うれ》しそうに)出発だわ!
ガーエフ 親愛なる諸君、敬愛おくあたわざる友人諸君! いま永遠にこの家を去るに臨んで、果して口をつぐんでおられましょうか。告別のため、今わたくしの全幅を領している感慨を、ここに吐露せずにおられましょうか……
アーニャ (哀願するように)伯父さま!
ワーリャ 伯父さん、およしなさいったら!
ガーエフ (しょげて)黄玉を空《から》クッションで真ん中へ……。黙るよ。……
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トロフィーモフ、つづいてロパーヒン登場。
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トロフィーモフ まだですか、皆さん、もう出発の時間ですよ!
ロパーヒン エピホードフ、おれの外套を!
ラネーフスカヤ わたし、もうちょっとだけ坐ってみよう([#ここから割り注]訳注 旅立ちの前に、しばらく腰をおろす習慣がロシア人にある[#ここで割り注終わり])。わたしまるで、今まで一度も、この家の壁がどんなだか、天井がどんなだか、見たことがないみたい。今になってやっと、見ても見飽きない気持で、たまらなく懐《なつ》かしい気持で、眺《なが》めるんだわ……
ガーエフ いまだに覚えてるが、わたしが六つのとき、聖霊降臨《トロイツァ》の日曜日に、わたしがこの窓に腰かけて見ていると、お父さんが教会へ出かけて行ったっけ……
ラネーフスカヤ 荷物はみんな出まして?
ロパーヒン どうやら、みんなです。(外套を着ながら、エピホードフに)いいかい、エピホードフ、あとは宜しく頼むよ。
エピホードフ (しゃがれ声で)ご心配なく、行ってらっしゃいまし。
ロパーヒン 一体どうしたんだ、その声は?
エピホードフ いま水を飲んだ拍子に、何かのみこみましたんで。
ヤーシャ (軽蔑《けいべつ》して)間抜けめ!
ラネーフスカヤ わたしたちが行ってしまうと、ここには人っ子ひとり残らないのねえ……
ロパーヒン 春が来るまではね。
ワ
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