] (頭をかかえて、広間へ急ぐ)まったくひどい。……とてもたまらん、僕は行こう……(退場。しかしすぐ戻って来て)もうあなたとは絶交です! (次の間へ退場)
ラネーフスカヤ (うしろから叫ぶ)ペーチャ、待ってちょうだい! おかしな人ね、ちょっと冗談いっただけじゃないの! ペーチャ!

[#ここから2字下げ]
次の間の階段を、誰かが大急ぎで登って行く足音がし、とつぜんドシンと落ちる音がする。アーニャとワーリャの叫び声。しかしすぐ笑い声になる。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ラネーフスカヤ おや、どうしたんだろう?

[#ここから2字下げ]
アーニャが駆けこむ。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
アーニャ (笑いながら)ペーチャがね、階段から落っこちたの! (走り去る)
ラネーフスカヤ なんておかしな人だろう、あのペーチャは……

[#ここから2字下げ]
駅長が広間の真ん中に立ちどまって、A・K・トルストイの『罪の女』([#ここから割り注]訳注 ロシア十九世紀の詩人・劇作家トルストイの叙事詩。次にその数行を例示する。――「若き罪の女は、杯をほしつつ、/その間に坐せり。/そのきらびやかのよそおいは/人みなの目をうばう、/その毒々しき髪かざりは/罪の女のなりわいを語る」[#ここで割り注終わり])を朗読する。一同謹聴するが、何行も読まないうちに次の間からワルツのひびきが流れてきて、朗読は中絶する。一同おどる。次の間から、トロフィーモフ、アーニャ、ワーリャ、ラネーフスカヤが出てきて、舞台にかかる。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ラネーフスカヤ ねえ、ペーチャ……その純潔な心で、わたしを赦してちょうだい、……さ、一緒に踊りましょう。……(ペーチャと踊る)

[#ここから2字下げ]
アーニャもワーリャも踊る。
フィールスがはいってきて、自分の杖《つえ》を横手のドアのそばに立てかける。ヤーシャも客間からはいって来て、ダンスを見物する。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ヤーシャ どうした、爺《じい》さん?
フィールス 加減がわるくてな。昔はうちの舞踏会といやあ、将軍さまだの男爵《だんしゃく》だの提督閣下だのが踊りに来なすったもんだが、それが今じゃ、郵便のお役人だの駅長だのを迎えにやって、それさえいい顔をして来やしない。どうもわしも、めっきり弱くなったよ。亡《な》くなった大旦那《おおだんな》さまは、みんなの病気を、いつも封蝋《ふうろう》で療治なすったものだ。今でもわしは、毎にち封蝋をのんでるが、これでもう二十六年か、その上にもなるかな。わしがこうして生きているのは、そのおかげかも知れんて。
ヤーシャ お前さんの話にも、あきあきするよ、爺さん。(あくび)いっそさっさと、くたばっちまえばいいになあ。
フィールス ええ、この……出来そこねえめが! (ぶつぶつ呟《つぶや》く)

[#ここから2字下げ]
トロフィーモフとラネーフスカヤが広間で踊り、やがて客間で踊る。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ラネーフスカヤ ありがとう《メルシ》。わたし、ちょっと休みます。……(腰かける)疲れたわ。

[#ここから2字下げ]
アーニャ登場。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
アーニャ (わくわくして)いま台所で、どこかの人が、桜の園は今日、売れてしまったと話していたわ。
ラネーフスカヤ 誰《だれ》が買ったの。
アーニャ 誰とも言わずに、行ってしまったの。(トロフィーモフと踊る。ふたり広間へ去る)
ヤーシャ それはね、どこかの爺さんがしゃべってたんでさあ、よそもんでしたがね。
フィールス 旦那さまは、まだ見えない、まだお帰りがない。外套《がいとう》は、薄い合着を召してお出かけだったが、もしや風邪でもお引きにならなけりゃいいが、いやはや、若い人というもんは!
ラネーフスカヤ わたし、今にも死にそうだ。ヤーシャ、向うへ行って聞いてきておくれ、誰が買ったのだか。
ヤーシャ でも、とっくに行ってしまいましたよ、その爺さんは。(笑う)
ラネーフスカヤ (いささかムッとして)まあ、何を笑うの、お前は? 何が嬉《うれ》しいの?
ヤーシャ あんまり、エピホードフのやつがおかしいもんで。いや、つまらん男で。二十二の不仕合せ。
ラネーフスカヤ フィールス、この領地が売れてしまったら、おまえどこへ行くつもり?
フィールス 仰《おお》せのままに、どこへでも参ります。
ラネーフスカヤ お前、どうしてそんな顔をしてるの? 加減でも悪いの? 向うへ行って、
前へ 次へ
全32ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
チェーホフ アントン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング