る)このコーヒーを飲んだら、それでお開きにしましょうね。(フィールス、夫人の足もとに足載せのクッションを置く)ありがとうよ、フィールス。わたし、コーヒーが癖になってね、昼も夜も飲むんですよ。ありがとう、爺《じい》や。(フィールスにキスする)
ワーリャ ちょっと見てこよう、荷物がみんな来ているかどうか。……(退場)
ラネーフスカヤ ほんとに、ここに坐《すわ》っているのはわたしかしら? (笑う)わたし飛んで跳ねて、両手を振りまわしたい。(両手で顔をおおう)これが夢だったらどうしよう! わたし神かけて、生れ故郷が好きですの、まるで母親に甘えるような気持ですの。わたし汽車の窓から、とても見てはいられなくなって、泣いてばかりいましたわ。(涙ごえで)それはそうと、コーヒーを頂かなくてはね。ありがとうよ、フィールス、ありがとう、爺や。お前が達者でいてくれて、わたしほんとに嬉しいよ。
フィールス おとといでございます。
ガーエフ 耳が遠いんだよ。
ロパーヒン わたしはこれからすぐ、今朝の四時すぎに、ハリコフへ発たなければなりません。じつに残念です! ちょっとお目にかかって、お話ししたいこともあったのですが……。しかし、相変らずご立派ですなあ。
ピーシチク (息をはずませながら)むしろ器量があがられたくらいだ。……お召物もパリ好みでな……わしらなど、どだい目がくらんで、まともにゃ拝めんほどですわい……
ロパーヒン あなたのお兄上、このガーエフさんは、わたしのことを下司《げす》だ、強欲だと言われますが、そんなこと、わたしは一向平気です。なんとでも仰しゃるがいい。ただわたしの望むところは、あなただけは元どおりわたしを信用してくだすって、そのえも言われぬ、しみじみしたお眼《め》を、従前同様わたしに注いで頂きたいということです。いやはや、思いだしてもゾッとする! うちの親父《おやじ》は、あなたのお祖父《じい》さんやお父さんの農奴だった。ところがあなたには、ほかならぬあなたという人には、わたしはいつぞや一方ならぬお世話になったことがある、それでわたしは、一切をきれいに忘れて、あなたを肉親のようにお慕いしています……いや、肉親以上にです。
ラネーフスカヤ わたし、じっとしちゃいられない、とても駄目《だめ》……(ぱっと立ちあがって、ひどく興奮のていで歩きまわる)嬉《うれ》しくって嬉しくって、気がち
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