犬を連れた奥さん
DAMA S SOBACHKOI
アントン・チェーホフ Anton Chekhov
神西清訳

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)薄色髪《ブロンド》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)面白|可笑《おか》しい

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+潯のつくり」、第4水準2−93−82]

*:注釈記号
 (底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)*ヤールタに来てから
−−

       一

 海岸通りに新しい顔が現われたという噂であった――犬を連れた奥さんが。ドミートリイ・ドミートリチ・グーロフは、*ヤールタに来てからもう二週間になり、この土地にも慣れたので、やはりそろそろ新しい顔に興味を持ちだした。ヴェルネ喫茶店に坐っていると、海岸通りを若い奥さんの通って行くのが見えた。小柄な薄色髪《ブロンド》の婦人で、ベレ帽をかぶっている。あとからスピッツ種の白い小犬が駈《か》けて行った。
 それからも彼は、市立公園や辻《つじ》の広場で、日に幾度となくその人に出逢った。彼女は一人っきりで、いつ見ても同じベレをかぶり、白いスピッツ犬を連れて散歩していた。誰ひとり彼女の身許を知った人はなく、ただ簡単に『犬を連れた奥さん』と呼んでいた。
『あの女が良人《おっと》も知合いも連れずに来てるのなら』とグーロフは胸算用をするのだった、『ひとつ付き合ってみるのも悪くはないな』
 彼はまだ四十の声も聞かないのに、十二になる娘が一人と、中学に通っている息子が二人あった。妻を当てがわれたのが早く、まだ彼が大学の二年の頃の話だったから、今では妻は彼より一倍半も老《ふ》けて見えた。背の高い眉毛《まゆげ》の濃い女で、一本気で、お高くとまって、がっちりして、おまけに自ら称するところによると知的な婦人だった。なかなかの読書家で、手紙も改良仮名遣いで押し通し、良人のこともドミートリイと呼ばずにヂミートリイと呼ぶといった塩梅式《あんばいしき》だった。いっぽう彼の方では、心ひそかに妻のことを、浅薄で料簡《りょうけん》の狭い野暮な奴だと思って、煙たがって家に居つかなかった。ほかに女を拵《こしら》えだしたのももう大分前からのことで、それも相当たび重なっていた。多分そのせいだったろうが、女のことになるとまず極《き》まって悪く言っていたし、自分のいる席で女の話が出ようものなら、こんなふうに評し去るのが常だった。――
「低級な人種ですよ!」
 さんざ苦い経験を積まさせられたのだから、今じゃ女を何と呼ぼうといっこう差支えない気でいるのだったが、その実この『低級な人種』なしには、二日と生きて行けない始末だった。男同士の仲間だと、退屈で気づまりで、ろくろく口もきかずに冷淡に構えているが、いったん女の仲間にはいるが早いかのびのびと解放された感じで、話題の選択から仕草《しぐさ》物腰に至るまで、実に心得たものであった。いやそれのみか、相手が女なら黙っていてさえ気が楽だった。いったい彼の風貌《ふうぼう》や性格には、つまり押しなべて彼の生まれつきには、何かしら捕捉しがたい魅力があって、それが女の気を惹《ひ》いたり、女を誘い寄せたりするのだった。彼もそれは承知の上だったが、いっぽう彼の方でもやはり、何かの力に牽《ひ》かれて女の方へおびき寄せられるのであった。
 いったい男女の関係というものは、初めのうちこそ生活の単調を小気味よく破ってくれもし、ほんのちょいとした微笑《ほほえ》ましいエピソードぐらいに見えるけれど、まっとうな人間――ことにそれが優柔不断な思い切りの悪いモスクヴァ人の場合だと、否《いや》が応でもだんだんに厄介千万な一大問題に変わって来て、とどのつまりは何とも身動きのならぬ状態に陥ってしまうものである。といった事情は、たび重なる経験のおかげで、それも全くもって苦い経験のおかげで、彼はとうの昔に知り抜いていた。だのにまた胸そそられる女に出くわす段になると、せっかくの経験もどうやら記憶からずり落ちてしまって、ああ生きることだと思い、この世の一切が実にたわいもない、面白|可笑《おか》しいものに見えて来るのだった。
 さて、ある日のこと夕暮近く、彼が公園で食事をしていると、ベレの奥さんが別に急いだ気色もなく、隣のテーブルめざして近づいて来た。その表情や歩きつきや、衣裳や髪かたちなどからして彼は、相手がちゃんとした身分の婦人で、人妻で、ヤールタには初めての滞在で、しかも独りぼっちで退屈していることを見てとった。……この土地の風儀の悪さについては色々話もあるが、とかくそれには嘘八百が多いので、彼はてんから歯牙《し
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