を慰めていたものだが、今の彼は理屈どころの騒ぎではなく、しみじみと深い同情を感じて、誠実でありたい、優しくありたいと願うのであった。……
「もうおやめ、いい子だから」と彼は言った。「それだけ泣いたら、もうたくさん。……今度は話をしようじゃないか、何かひと工夫してみようじゃないか」
 それから二人は長いこと相談をしていた。どうしたら一体、人目を忍んだり、人に嘘をついたり、別々の町に住んだり、久しく会わずにいなければならないような境涯から、抜け出すことができるだろうかということを語り合った。どうしたらこの堪えきれぬ枷《かせ》からのがれることが出来るだろうか?
「どうしたら? どうしたら?」と彼は、頭をかかえて訊くのだった。「どうしたら?」
 すると、もう少しの辛抱で解決の途がみつかる、そしてその時こそ新しい、素晴らしい生活が始まる、とそんな気がするのだった。そして二人とも、旅の終りまではまだまだはるかに遠いこと、いちばん複雑な困難な途がまだやっと始まったばかりなことを、はっきりと覚るのだった。

     訳注

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ヤールタ――クリミヤの南岸、黒海に臨む風光明媚《ふうこうめいび》な保養地。
べリョーフだとかジーズドラだとか――いずれもヨーロッパ・ロシヤの中部にある小さな町。
グラナダ――スペイン・アンダルシヤの都会。ムーア人の王国の旧都で、アルハンブラ宮殿など当時の遺跡によって名高い。
罪の女――『ヨハネ伝』第八章三節以下。この女性を描いた画《え》は古来すくなくない。
オレアンダ――ヤールタの西南一里半足らずにある公園地。やはり黒海に臨み、当時は帝室領であった。
フェオドシヤ――クリミヤの南岸にある海港。
ペトローフカ通り――モスクヴァの中心部を南北に走る大通りで、市内屈指の繁華な商店街。
『スラヴャンスキイ・バザール』――モスクヴァの一流ホテルの一つ。
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底本:「可愛い女・犬を連れた奥さん 他一篇」岩波文庫、岩波書店
   1940(昭和15)年10月5日第1刷発行
   2004(平成16)年9月16日改版第1刷発行
※底本では「訳注」に底本の頁数が書かれています。
入力:佐野良二
校正:阿部哲也
2007年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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