晩がた停車場でアンナ・セルゲーヴナを見送ってから、これで万事おしまいだ、もう二度と会うことはあるまい、と心につぶやいたことを思い出した。それが、おしまいまではまだまだ何と遠いことだろう!
『立見席御入口』と掲示の出ている狭い薄暗い階段の中途で、彼女は立ちどまった。
「ずいぶん人をびっくりさせる方《かた》ねえ!」と彼女は苦しそうに息をつきながら言った。いまだに真っ蒼《さお》な、あっけにとられたような顔だった。「ええ、ほんとに人をびっくりさせる方ですわ! わたし生きた心地もないくらい。何だって出掛けていらしたの? なぜですの?」
「でも察してください、アンナ、察して……」と彼は小声で、急《せ》きこんで言った。「後生だから察して……」
彼女は恐怖と哀願と愛情の入れまじった眼差《まなざ》しで彼を見つめた。彼の面影をなるべくしっかり記憶に刻みつけようと、まじまじと見つめるのだった。
「わたしとても苦しんでいますの!」と彼女は、相手の言葉には耳をかさずにつづけた。「わたしはしょっちゅうあなたの事ばかり考えていたの、あなたのことを考えるだけで生きていたの。そして、忘れよう忘れようと思っていたのに、あなたは何だって、何だってまた出掛けていらしったの?」
少し上の踊り場で、中学生が二人煙草を吹かしながら見おろしていたが、グーロフにはそんなことはどうでもよく、アンナ・セルゲーヴナを自分の方へ引き寄せると、その顔や頬や手に接吻しはじめた。
「何をなさるの、何をなさるの!」彼女は男を押しのけながら、おびえ切って言うのだった。「これじゃ二人とも狂気の沙汰ですわ。今日にもここを発《た》ってちょうだい、今すぐこの足で発ってちょうだい。……神かけてのお願いですわ、後生ですわ。……ああ誰か来る!」
階段の下の方から誰やらあがって来た。
「あなたはお発ちにならなきゃいけないのよ……」とアンナ・セルゲーヴナはひそひそ声でつづけた。「ね、いいこと、ドミートリイ・ドミートリチ? わたしの方からモスクヴァへお目にかかりに行きますわ。わたしは一日だって仕合せだったことはなし、現在も不仕合せだし、これから先だって決して仕合せになりっこはないの、決してないの! この上またわたしを苦しまさせないで下さいまし! 指切りですわ、わたしがモスクヴァへ行きますわ。でも今日はお別れにしましょう! ね、わたしの大事な大事なあなた、お別れにしましょう!」
彼女は彼の手を握りしめると、彼の方を見返り見返り、すばやく階段を下りて行った。その彼女の眼を見ると、彼女が実さい仕合せでないことが分かるのだった。グーロフはややしばしその場に佇《たたず》んで耳を澄ましていたが、やがて一切が静寂に返ると、自分の外套掛けをさがし出して劇場を後にした。
四
でアンナ・セルゲーヴナは彼に会いにモスクヴァへ来るようになった。二月《ふたつき》か三月《みつき》に一度、彼女はS市から出て来るのだったが、良人には大学の婦人科の先生に診《み》てもらいに行くのだと言いつくろっていた。もっとも良人は半信半疑の体《てい》だった。モスクヴァに着くと、彼女は『*スラヴャンスキイ・バザール』に部屋をとって、すぐさまグーロフのところへ赤帽子の使いを走らせる。そこでグーロフが彼女に会いに行くのだったが、モスクヴァじゅうで誰一人それに気づいた者はなかった。
あるとき彼はやはりそんな段どりで、冬の朝を彼女の宿めざして歩いていた(便利屋は前の晩に来たのだが彼は留守にしていた)。娘も一緒に連れだっていたが、それはちょうど途中にある学校まで送ってやろうと思ったのだった。大きなぼたん雪がさかんに降っていた。
「今朝《けさ》の温度は三度なんだが、でもやっぱり雪が降るねえ」とグーロフは娘に話すのだった。「でもね、この温かさは地面の表面だけのことで、空気の上の層じゃまるっきり気温が違うんだよ」
「じゃあねパパ、なぜ冬は雷が鳴らないの?」
それも説明してやった。彼は話しながら、こんなことを考えていた――今こうして自分は逢引《あいびき》に行くところだが、人っ子一人それを知った者はないし、たぶんいつまでたっても知れっこはあるまい。彼には生活が二つあった。一つは公然の、いやしくもそれを見たい知りたいと思う人には見せも知らせもしてある生活で、条件つきの真実と条件つきの虚偽でいっぱいな、つまり彼の知合いや友達の生活とまったく似たり寄ったりの代物だが、もう一つはすなわち内密に営まれる生活である。しかも一種奇妙な廻《めぐ》り合せ、恐らくは偶然の廻り合せによって、彼にとって大切で興味があってぜひとも必要なもの、彼があくまで誠実で自己をあざむかずにいられるもの、いわば彼の生活の核心をなしているものは、残らず人目を避けて行なわれる一方、彼が上辺《うわ
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