べ》を偽る方便、真実を隠そうがために引っかぶる仮面――例えば彼の銀行勤めだの、クラブの論争だの、例の『低級な人種』という警句だの、細君同伴の祝宴めぐりだのといったものは、残らずみんな公然なのだった。で彼は己れを以《もっ》て他人を測って、目に見えるものは信用せず、人には誰にも、あたかも夜のとばりに蔽《おお》われるように秘密のとばりに蔽われて、その人の本当の、最も興味ある生活が営まれているのだと常々考えていた。各人の私生活というものは秘密のおかげで保《も》っているのだが、恐らく一つにはそのせいもあって教養人があれほど神経質に、私行上の秘密を尊重しろと騒ぎ立てるのだろう。
娘を学校に送りつけると、グーロフは『スラヴャンスキイ・バザール』をめざして行った。彼は下で外套をぬぎ、二階へあがって、そっと扉をノックした。アンナ・セルゲーヴナは彼の好きな灰色の服をきて、長の道中と待遠しさとにぐったりして、昨日の晩から彼を待ちわびていた。彼女は蒼い顔をして、彼をじっと見たままにこりともしなかったが、彼が閾《しきい》をまたぐかまたがぬうちに、早くもその胸にひたとばかりとり縋《すが》った。まるで二年も会わずにいた人のように、彼らの接吻はながくながく続いた。
「どう、あっちの生活は?」と彼はきいた。「何か変わったことでもある?」
「ちょっと待って、いますぐ話すから。……だめだわ」
泣いているので話ができないのだった。彼から顔をそむけて、ハンカチを眼に押し当てた。
『まあ、一ときそうして泣くがいい。おれはその間にひと坐りしよう』と彼は考え、肱掛椅子《ひじかけいす》に腰をおろした。
やがて彼はベルを押して、お茶を持って来るように命じた。それから彼がお茶を飲んでいる間、彼女は窓の方へ顔をそらしたままで立っていた。……彼女が泣いたのは興奮からだった、二人の生活がこんな悲しい成行きになってしまったという哀切な意識からだった。二人はこっそりとでなければ会えず、まるで盗人のように人目を忍んでいるではないか! これでも二人の生活が破滅していないと言えるだろうか?
「さ、もうおやめ!」と彼は言った。
この二人の恋がまだそう急にはおしまいにならないことは、彼にははっきり見えていた。何時《いつ》という見当もつかないのだ。アンナ・セルゲーヴナはますますつよく彼に結ばれて来て、彼を心から崇拝していたから、その
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