紙が来て、眼が悪くなったことを報《し》らせ、後生だから妻に早く帰ってきてもらいたいと言ってよこした。アンナ・セルゲーヴナはそわそわし始めた。
「わたしが行ってしまうのはいい事だわ」と、彼女はグーロフに言うのだった。「これが運命というものなのよ」
彼女は馬車でたち、彼も一緒に送って行った。一日がかりの道のりだった。やがて彼女が急行列車の車室《はこ》に席を占めて、二度目のベルが鳴ったとき、彼女はこう言うのだった。――
「さあ、もう一度お顔をよく見せて。……もう一ぺんよく見せて。そら、こうして」
彼女は泣きこそしなかったが、まるで病人のように沈んだ様子で、顔をわななかせていた。
「あなたのことは忘れませんわ……いつまでも思い出しますわ」と彼女は言った。「ご機嫌よう、お仕合《しあわ》せでね。悪くお思いにならないでね。わたくしたち、これっきりもうお別れに致しましょうね。だってそうなんですもの、二度とお目にかかってはなりませんもの。ではご機嫌よう」
汽車はみるみる出て行き、その燈もまもなく消え失せて、一分の後にはもう音さえ聞こえなかった。それはちょうど、この甘い夢見心地、この痴《し》れごこちを、一刻も早く断ち切ってやろうと、みんなでわざわざ申し合わせたかのようだった。で、一人ぽつねんとプラットフォームに居残って、はるかの闇に見入りながら、グーロフはまるでたったいま目が覚めたような気持で、蟋蟀《こおろぎ》の鳴き声や電線の唸りに耳をすましていた。そして心の中でこんなことを思うのだった――自分の生涯には現にまた一つ、波瀾《はらん》とかエピソードとかいったものがあったけれど、それもやっぱりもう済んでしまって、今では思い出が残っているのだ……。彼は感動して、もの侘《わび》しく、かるい悔恨をおぼえるのだった。思えばあの二度ともう逢う折りもない若い女性も、自分と一緒にいるあいだ幸福とは言えなかったではないか。愛想よくもしてやったし、親身にいたわってやりもしたけれど、それにしてもあの女に対するこっちの態度や、ことばの調子や、可愛がりようの中にはやっぱり、まんまと幸運を手に入れた男の、それも相手より二倍ちかくも年上の男のかるい嘲笑《あざわら》いや、がさつな思い上がりが、影のように透けて見えるのをどうしようもなかったのだ。彼女はいつも彼のことを、親切な、世の常ならぬ、高尚な人と呼んでいた。し
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