いたのは、やはり教会から帰る途中のヴァシーリイ・アンドレーイチ・プストヴァーロフという近所の男で、これは大問屋ババカーエフの材木置場の管理をまかされている人物だった。彼は麦わら帽子をかぶって、白いチョッキには金鎖をからませなどして、小商人というよりむしろ地主の旦那然としたいでたちだった。
「何事によらず物にはそれぞれ定まった命数というものがありましてね、オリガ・セミョーノヴナ」と彼は悟り澄ましたような調子で、声に同情を含ませて話すのだった。「ですから誰か身うちの者が死んだとしても、それはつまり神様の思召しなんですから、そんな場合にもわれわれは気をしっかり持って、すなおに堪《た》え忍ばなければならないんですよ」
オーレンカを木戸のところまで送って来ると、彼は別れを告げて、そのまま向こうへ歩いて行った。それ以来というもの、日がな日ねもす彼女の耳には彼の悟り澄ましたような声がきこえ、ちょいと眼をつぶってもたちまち彼の真っ黒な髯《ひげ》がちらつくようになった。彼女はすっかり彼が気に入ってしまったのである。それのみか、どうやら彼女の方からも相手の胸に感銘を与えたらしいという証拠には、それから二、三日すると、平生あまり顔なじみのないさる年配の婦人がコーヒーを飲みにやって来て、食卓に向かって座を占めるが早いか、早速もうプストヴァーロフのことをしゃべり出して、あの人はしっかりしたいい人だ、あの人の所へならどんな花嫁さんでも喜んで行くにちがいない、などとまくし立てたものである。それから三日すると今度は当のプストヴァーロフまでが訪問して来た。彼はほんのちょっと、十分ばかりいただけで、あまり口数もきかなかったが、オーレンカはすっかり彼に恋してしまったのみか、それがまた一通りや二通りの慕いようではなく、その晩はまんじりともせずにまるで熱病にでもやられたように心を燃やし身を焦がし、朝になるのを待ちかねて例の年配の婦人を呼びに使いを走らせるという騒ぎだった。まもなく結納《ゆいのう》がすみ、やがて婚礼があった。
プストヴァーロフとオーレンカは夫婦になって楽しく暮した。たいてい彼は昼飯まで材木置場に陣どっていて、それから外交に出掛けるのだったが、あとはオーレンカが引き受けて、夕方まで帳場に坐り込んで勘定書を作ったり、商品を送り出したりするのだった。
「当節じゃ材木が年々二割がたも値あがりになっておりましてねえ」と彼女はお得意や知合いの誰彼に話すのだった。「何せあなた、以前わたくしどもでは土地の材木を商《あきな》っておりましたのですけれど、それが当節じゃヴァーシチカが毎とし材木の買い出しにモギリョフ県まで参らなければなりませんの。その運賃がまた大変でしてねえ!」そう言って彼女は、さもぞっとするように両手で頬をおさえて見せるのだった。「その運賃がねえ!」
彼女は自分がもうずっとずっと前から材木屋をしているような気がし、この世の中で一ばん大切で必要なものは材木のように思えて、桁材だの、丸太だの、板割だの、薄板だの、小割だの、木舞《こまい》だの、台木だの、背板だの……といった言葉の中に、何となく親身なしみじみした響きが聞きとれるのだった。来る夜も来る夜も、眠りに落ちた彼女の夢に現われるのは、厚いまた薄い板材が山のようにいくつも積み上げられたところ、えんえんと涯《はて》しもない荷馬車の列が材木をどこか遠く町の外へ運んでゆくところだった。夢の中にはまた、七寸丸太の長さ三十尺近くもある奴が総立ちで一個連隊ほども旗鼓《きこ》堂々と材木置場へ押し寄せてくる光景、丸太や桁材や背板が互いにぶつかり合って、腹の底までしみとおるような乾いた木の音を鳴り響かせながら、どっと倒れては起き起きては倒れ、互いに相手を足場に踏まえて積み重なってゆく有様も出てきた。オーレンカが夢のなかできゃっと声を立てると、プストヴァーロフが優しい言葉をかけてやるのだった。――
「オーレンカ、おまえどうしたのさ、ええ? 十字をお切り!」
良人の思うこと考えることは、同時にまた彼女の思うこと考えることだった。彼がこの部屋は熱すぎるとか、商売が近ごろひまになったとか考えると、彼女もそう考えるのだった。良人が物見遊山《ものみゆさん》は嫌いの性分で、休みの日には家にいるので、彼女もやはりそうしていた。
「まあ、しょっちゅうあなたはお家にばかり、でなければ事務所にばかりいらっしゃるのねえ」と知合いの人がよくそんなふうに言った。「たまには芝居へなり、ねえ可愛いあなた、それとも曲馬へなりいらっしゃればいいのに」
「わたくしどもヴァーシチカと二人には芝居見物の暇なんぞありませんのよ」と彼女は悟り澄ました調子で答えるのだった。「わたくしども自分の腕で御飯をいただいております者には、時間つぶしをする余裕なんかございませんわ。芝居なんぞどこがいいんでしょうねえ?」
土曜日になるとプストヴァーロフと彼女はきまって夜祷式に行き、祭日には朝の弥撤《ミサ》に行った。教会の帰り途《みち》はいつも仲よく肩を並べて、しんみりと感動した面もちで、二人ともいい匂いをぷんぷんさせながら歩いて来ると、彼女の絹の衣裳がさらさらと快い音を立てるのだった。さてわが家へ帰るとお茶になって、味つきパンや色んなジャムが出たあとで、仲よく|肉まん《ピローグ》に舌つづみをうつ。毎日お午《ひる》になると、中庭はもとより門のそとの往来へまで、|甜菜スープ《ボルシチ》だの羊や鴨の焼肉だののおいしそうな匂いが漂い、それが精進日だと魚料理の匂いにかわって、門前に差しかかる人は、食欲をそそられずに行き過ぎるわけにはいかなかった。事務所の方にはいつもサモヴァルがしゅんしゅんいっていて、お得意は輪形のパンでお茶の饗応にあずかった。一週間に一度、夫婦は風呂屋へ行って、帰り途は仲よく肩をならべて、二人とも真っ赤に顔を上気させていた。
「おかげさまで、結構な暮しをしておりますわ」とオーレンカは知合いの人たちに言い言いした。「有難いことですわ。どうか世間の皆さまにも、わたくしどもヴァーシチカと二人のように暮させて差し上げたいものですわ」
プストヴァーロフがモギリョフ県へ材木の仕入れに出掛けると、彼女はひどく淋《さび》しがって、来る夜も来る夜も眠らずに泣いていた。ときどき宵の口に、彼女のところへ連隊づきの獣医でスミールニンという、彼女の屋敷の離れを借りている若い男がやって来た。彼が何かと世間話をしてくれたり、カルタの相手になってくれたりするので、彼女の気もまぎれるのだった。なかでもとりわけ面白かったのは、彼自身の家庭生活の思い出ばなしだった。彼には細君もあり息子もあったのだが、細君が不行跡を働いたので夫婦わかれをして、現ざい彼はもとの細君を憎み抜いていながら、月々息子の養育費として四十ルーブルの仕送りをしていた。といった身の上話に聴き入りながら、オーレンカはほっと溜息《ためいき》をして頭をふり、この男をしみじみ気の毒に思うのだった。
「では、くれぐれもお大事にね」と彼女は、暇《いとま》を告げる彼を見送って蝋燭《ろうそく》を手に階段のところまで出ながら言うのだった。「有難うございました、おかげさまで淋しさがまぎれましたわ。ご機嫌よろしゅう、おやすみなさいまし……」
そしてまた彼女は相変らず良人の口真似で、いかにも悟り澄ましたような、いかにも思慮ぶかそうな言葉づかいをするのだった。獣医の姿はもう下の扉のそとへ消えてしまったのに、彼女はもう一ぺん彼の名を呼んで、こんなことを言ってきかせた。――
「ねえ、ヴラヂーミル・プラトーヌィチ、あなたは奥さんと仲直りをなさるのがいいですわ。お子さんのためだと思って奥さんを赦《ゆる》してお上げなさいましよ!……坊ちゃんだって案外、もうちゃんと物心がついてらっしゃるかも知れませんもの」
そしてプストヴァーロフが帰って来ると、彼女はひそひそ声でこの獣医のことや、その不仕合せな家庭生活のことを良人に話してきかせて、二人とも溜息をついたり首を横にふったりしながら、その男の児《こ》はさだめしお父さんを恋しがっていることだろうなどと語り合い、やがて一種奇妙な想念の流れにみちびかれて、二人して聖像の前にかしこまって、地に額《ぬか》ずいて礼拝をしながら、神様どうぞ私どもに子どもをお授けくださいと祈るのだった。
といったぐあいで、プストヴァーロフ夫婦はひっそりとおとなしく、互いに愛し愛されつつ水ももらさぬ仲むつましさで六年の歳月をおくった。ところがある冬の日のこと、ヴァシーリイ・アンドレーイチは事務所で熱いお茶をがぶがぶ飲んでから、帽子もかぶらず材木の送り出しに表《おもて》へ出て行って、風邪をひきこみ、どっと病《やまい》の床についた。ずいぶんといい先生がたにかかったけれど、病魔にはとうとう打ち克てず、四カ月わずらいとおした挙句に死んでしまった。でオーレンカはまたしても後家さんになった。
「こうしてこのわたしを見棄てていったい誰に頼れと仰しゃるの、ねえあなた?」と、良人の埋葬を済ませてから彼女はおいおい泣くのだった。「あなたに死に別れてこの先どうして生きて行ったらいいの、みじめな不運なこのわたしは? 親切な皆さまがた、このわたしを不憫《ふびん》と思って下さいまし。天にも地にも身寄りのない女を……」
彼女はずっと黒い服に白い喪章をつけて押し通し、帽子や手袋はもはや生涯身につけぬことにきめ、外へ出るのもごく時たま教会まいりか良人の墓参に行くだけにして、まるで修道尼のように引きこもって暮していた。こうして六カ月たつと、彼女はやっと喪章をはずして、窓の鎧戸《よろいど》もあけはなすようになった。その頃になるとちょいちょい朝のうちに、彼女が食料品の買い出しに炊事女をつれて市場へ行く姿が見えるようになったが、彼女がうちでどんな生活をしているのか、家内の様子がどんなぐあいになっているのかということになると、当て推量をしてみるほかに手はなかった。その当て推量の種《たね》になったのは、例えば彼女がうちの中庭で例の獣医を相手にお茶を飲んでいて、男の方が彼女に新聞を読んできかせているところを誰か見かけた人があるとか、更にはまた、郵便局で出会ったある知合いの婦人に向かって、彼女がこんなことを言ったとかいう類《たぐ》いの事柄だった。――
「わたくしどもの町では獣医の家畜検査というものがちゃんと行なわれておりませんので、そのため色んな病気がはやるんでございますわ。のべつもう、人さまが牛乳から病気をもらったとか、馬や牛から病気が感染なすったとか、そんなお話ばかり伺いますのねえ。まったく家畜の健康と申すことには、人間の健康ということに劣らず、心を配らなくてはなりませんわ」
彼女の言うことは例の獣医の考えそのままの受け売りで、今では何事によらず彼と同じ意見なのだった。してみればもはや、もともと彼女は誰かに打ち込まずには一年と暮せない女で、今やその身の新しい幸福をわが家の離れに見出したのだということは、語るに落ちた次第だった。ほかの女だったら世間の非難を浴びずに済みそうもないこの出来事も、オーレンカのことだとなると誰ひとりとして悪く思う気にはなれず、彼女の身の上のことは何事によらずもっとも至極とうなずけるのだった。彼女も獣医も、二人の仲におこった変化のことは誰にも打ち明けず、ひた隠しに隠していたけれど、あいにくこれが二人の注文どおりに行かなかったというわけは、オーレンカがおよそ秘密なんていうことは柄《がら》にもない女だったからである。男のところへ連隊の同僚がお客にやって来たりすると、彼女はお茶をついでやったり夜食を出してやったりしながら、牛や羊のペストの話、おなじく結核の話、その町の屠殺場の話などを滔々《とうとう》とやりだすので、男の方ではすっかり閉口してしまい、お客の帰ったあとで彼女の手をぐいとつかまえて、腹立たしげに声を尖らせるのだった。――
「自分の分かりもしない話をするじゃないってあんなに頼んどくのにさ! 僕たち獣医同士で話をしている時には、お願いだから口出しはやめて下さい。
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