それは要するに、退屈なだけですからねえ!」
 すると彼女は、びっくりしたような眼でおどおどと彼を見て、こう聞き返す。――
「ヴォローヂチカ、じゃああたし何の話をすればいいのよ※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
 そして彼女は眼に涙をうかべて彼に抱きついて、後生だから怒らないでねと頼む――といった調子で二人は幸福だった。
 だがしかし、この幸福もほんのわずかの間だった。獣医が連隊について行ってしまった、それも永久に行ってしまった。というのはその連隊がどこかとても遠いところへ、もう一あしでシベリヤというところへ移されたからである。でオーレンカは一人ぼっちになってしまった。
 今度こそもう彼女はまったくの一人ぼっちだった。父親はとうの昔に亡くなり、例の肱掛椅子は屋根裏に転がっていて、埃《ほこり》まみれで、脚が一本とれていた。彼女は痩《や》せて器量も落ちたので、往来で行き会う人々ももはや以前のように彼女をしげしげと見たり、にっこり笑いかけたりはしなかった。明らかにもはや盛りの年は過ぎ去って、昔の語り草になってしまい、今やいっこうに勝手の分からない一種べつな生活、いっそかれこれ思ってみない方がましらしい生活が、始まりかけているのだった。晩になるとオーレンカは、中庭へ下りる段々に腰をかける。するとその耳に、『ティヴォリ』でやっている音楽や、花火のぽんぽんいう音が聞こえるのだったが、それも今では何の想いをも呼びおこさなかった。彼女はさもつまらなそうな眼つきでがらんとしたわが家の中庭に見入ったまま、何を思うでも何を求めるでもなくただぼんやりしていて、やがて夜がふけると寝間へ引きとって、わが家のがらんとした中庭を夢に見るのだった。食べるのも飲むのも、彼女はまるで厭々《いやいや》やっているような様子だった。
 が、中でも一ばん始末の悪かったのは、彼女にもう意見というものが一つもないことだった。彼女の眼には身のまわりにある物のすがたが映りもし、まわりで起こることが一々会得もできるのだったが、しかも何事につけても意見を組み立てることが出来ず、何の話をしたものやら、てんで見当がつかなかった。ところでこの何一つ意見がないというのは、なんという怖ろしいことだろう! 例えば壜《びん》の立っているところ、雨の降っているところ、または百姓が荷馬車に乗って行くところを目にしても、その壜なり雨なり百姓なりが何のためにあるのやら、それにどんな意味があるのやら、それが言えず、仮に千ルーブルやると言われたって何の返事もできないに違いない。クーキンやプストヴァーロフがついていてくれた頃も、またその後で、獣医がついていてくれた時も、オーレンカは説明のつかないことは一つもなかったし、どんな問題を出されても自分の意見を述べるに不自由しなかったものだが、それが今ではむらがる想いの間《あわい》にも心の内部にも、ちょうどわが家の庭そっくりのがらんどうが出来てしまっていた。その何ともいえぬ気味わるさ、何ともいえぬ口の苦さは、艾《よもぎ》をどっさり食べたあとのようだった。
 町は次第に四方へひろがって行った。ジプシー部落も今では通りと名が変わり、例の『ティヴォリ』遊園や材木置場のあったあたりには、はや家が立ち並んで、横町がいくつもできていた。時のたつのは何と早いものだろう! オーレンカの家は煤《すす》ぼけて、屋根は錆《さ》び、納屋はかしぎ、庭には丈の高い雑草や刺《とげ》のある蕁麻《いらくさ》がいっぱいにはびこってしまった。当のオーレンカも老《ふ》け込んで器量が落ちた。夏になると彼女は例の段々に坐っているが、その胸のうちは相変らずがらんとして、味気なく、例の苦艾《にがよもぎ》の後味がしていたし、冬は冬で彼女は窓ぎわに坐って、じっと雪を見つめている。春の息吹きがそよりとでもしたり、風のまにまに寺院の鐘の音がつたわって来たりすると、突然どっとばかり過去の追憶が押しよせて、あまく胸がしめつけられ、眼からは涙がとめどなく流れるけれど、それもほんの束《つか》の間《ま》のことで、胸のなかは再びがらんとしてしまい、何を甲斐《かい》に生きているのやらつくづく分からなくなる。黒い小猫のブルイスカが甘えかかって、ごろごろと柔《やさ》しく喉を鳴らすけれど、こうして猫なんぞにちやほやされてみたところで、オーレンカにはさっぱり有難くない。彼女の求めているのはそんなものだろうか? いやいや彼女の欲しいのは、同じ愛といっても自分の全身全霊を、魂のありったけ理性のありったけを、ぎゅっと引っつかんでくれるような愛、自分に思想を、生活の方向を与えてくれるような愛、自分の老い衰えてゆく血潮を温めてくれるような愛なのだ。で彼女は黒いブルイスカを裾《すそ》から振り払って、いまいましげにこう極《き》めつけるのだった。――
「あっちへ
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