イオーヌィチ
JONYCH
アントン・チェーホフ Anton Chekhov
神西清訳

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)邸《やしき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一口|噺《ばなし》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#天から3字下げ]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔dites que l'on nous donne du the'.〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html

*:注釈記号
 (底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)『*榾《ほだ》あかり』の
−−

       一

 県庁のあるS市へやって来た人が、どうも退屈だとか単調だとかいってこぼすと、土地の人たちはまるで言いわけでもするような調子で、いやいやSはとてもいいところだ、Sには図書館から劇場、それからクラブまで一通りそろっているし、舞踏会もちょいちょいあるし、おまけに頭の進んだ、面白くって感じのいい家庭が幾軒もあって、それとも交際ができるというのが常だった。そしてトゥールキンの一家を、最も教養あり才能ある家庭として挙げるのであった。
 この一家は大通りの知事の邸《やしき》のすぐそばに、自分の持家を構えて住んでいた。主人のトゥールキンは、名をイヴァン・ペトローヴィチといって、でっぷりした色の浅黒い美丈夫で、頬髯《ほおひげ》を生やしている。よく慈善の目的で素人《しろうと》芝居を催して、自身は老将軍の役を買って出るのだったが、その際の咳《せき》のしっぷりがすこぶるもって滑稽だった。彼は一口|噺《ばなし》や謎々や諺《ことわざ》のたぐいをどっさり知っていて、冗談や洒落《しゃれ》を飛ばすのが好きだったが、しかもいつ見ても、いったい当人がふざけているのやら真面目《まじめ》に言っているのやら、さっぱり見当のつきかねるような顔つきをしていた。その妻のヴェーラ・イオーシフォヴナは、瘠《や》せぎすな愛くるしい奥さんで、鼻眼鏡をかけ、手ずから中篇や長篇の小説をものしては、それをお客の前で朗読して聴かせるのが大好きだった。娘のエカテリーナ・イヴァーノヴナは妙齢のお嬢さんで、これはピアノに御堪能《ごたんのう》だった。要するにこの一家の人たちは、みんなそれぞれに一技一芸の持主だったわけである。トゥールキン家の人々はお客を歓迎して、朗らかな、心《しん》から気置きのない態度で、めいめいの持芸を披露に及ぶのだった。彼らの大きな石造りの邸はひろびろしていて、夏分は涼しく、数ある窓の半分は年をへて鬱蒼《うっそう》たる庭園に面していて、春になるとそこで小夜鶯《うぐいす》が啼《な》いた。お客が家の中に坐っていると、台所の方では庖丁《ほうちょう》の音が盛んにして、玉ねぎを揚げる臭《にお》いが中庭までぷんぷんして――とこれがいつもきまって、皿数のふんだんな美味《おいし》い夜食の前触れをするのだった。
 さて医師のスタールツェフ、その名はドミートリイ・イオーヌィチが、郡会医になりたてのほやほやで、S市から二里あまりのヂャリージへ移って来ると、やはり御多分に漏れず、いやしくも有識の士たる以上はぜひともトゥールキン一家と交際を結ばなくてはいかん、と人から聞かされた。冬のある日のこと、彼は往来でイヴァン・ペトローヴィチに紹介され、お天気の話、芝居の話、コレラの話とひとわたりあった後、やはり招待をかたじけのうすることになった。春になって、ある祭日のこと――それは昇天節の日だった――患者の診察を済ませるとスタールツェフは、ちょいと気散じがてら二つ三つ買物もあって、町へ出掛けた。彼はぶらぶら歩いて行ったが(実はまだ自分の馬車がなかったので)、のべつこんな歌を口ずさんでいた。――

[#天から3字下げ]浮世の杯《つき》の涙をば、まだ味わわぬその頃は……

 町で食事をしてから、彼は公園をちょっとぶらついた。やがてそのうちにイヴァン・ペトローヴィチの招待のことが自《おの》ずと思い出されたので、ひとつトゥールキン家へ乗り込んで、どんな連中なのか見てやろうと肚《はら》を決めた。
「ようこそどうぞ」とイヴァン・ペトローヴィチは、昇り口で彼を出迎えながら言った。「これはどうも御珍客で、いやはや実に喜ばしい次第です。さあさこちらへ、ひとつ最愛の妻にお引き合わせ致しましょう。私はこの方《かた》にこう申し上げているんだよ、ねえヴェーロチカ」と彼は、医師を妻に紹介しながら言葉をつづけた。「こう申し上げているんだよ、この方としたものが御自分の病院にばかり引っこもっておられるなんて、そんなローマ法があるものじゃない、すべからくその余暇を社交にお割《さ》きになるべきだってね。そうじゃないかい、ねえお前?」
「こちらへお掛け遊ばせな」とヴェーラ・イオーシフォヴナは、お客を自分の傍へ坐らせながら言った。「あなたこの私に慇懃《いんぎん》をお寄せ下さいますでしょうねえ。宅は焼餅《やきもち》やきですの、あのオセロなんですのよ。でも私たち、宅に何一つ気《け》どられないようにうまく立ちまわりましょうねえ」
「ええ、この甘ったれの雛《ひよ》っ子さん……」イヴァン・ペトローヴィチは優しくつぶやいて、妻の額《ひたい》に接吻《せっぷん》をして、「あなたは実によい時においでになったんですよ」とまた客の方へ話しかけた。「わが最愛の妻が一大長編を書き上げましてね、今日それを朗読することになっていますので」
「ちょいとジャン」とヴェーラ・イオーシフォヴナが良人《おっと》に言った。「|〔dites que l'on nous donne du the'.〕《おちゃをそういってくださいましな》」
 スタールツェフはエカテリーナ・イヴァーノヴナにも引き合わされた。これは十八になる娘さんで、すこぶるお母さん似の、やっぱり瘠せぎすな愛くるしい人だった。その表情はまだ子ども子どもしていて、腰つきも細っそりと華奢《きゃしゃ》だったが、いかにも処女《おとめ》らしいすでにふっくらと発達した胸は、美しく健康そうで、青春を、まぎれもない青春を物語っていた。さてそれからみんなでお茶を飲んで、ジャムだの蜂蜜だのボンボンだの、口へ入れるとたんに溶けてしまうすこぶるおいしいお菓子だのを風味した。夕暮が迫るにつれてだんだんとお客が集まって来たが、その一人一人にイヴァン・ペトローヴィチは例の笑《え》みこぼれるような眼を向けて、こう挨拶するのであった。――
「ようこそどうぞ」
 やがて一同そろって客間へ通って、すこぶる真面目くさった顔つきで席におさまると、いよいよヴェーラ・イオーシフォヴナが自作の小説を朗読するのだった。彼女はこんなふうに始めた。――『凍《い》てはますますきびしくなって……』窓がみんな一杯に開け放してあるので、台所で庖丁をとんとんいわせる音が聞こえ、玉ねぎを揚げるにおいが漂って来た。……深々とやわらかなソファはいい坐り心地だったし、客間の夕闇のなかには灯《あか》りがいかにも優しげに瞬《またた》いていた。そして今この夏の夕ぐれに、往来からは人声や笑いごえが伝わって来るし、庭からは紫丁香花《はしどい》の匂いの流れて来るなかで、凍てがますますきびしくなって、沈みゆく太陽がその寒々《さむざむ》とした光線で雪の平原を照らしたり、ひとり淋《さび》しく道をゆく旅人を照らしたりしている光景をしみじみ味わい知れというのは、無理な注文というものであった。ヴェーラ・イオーシフォヴナの朗読は進んで、うら若い美貌《びぼう》の伯爵夫人がその持村に小学校や病院や図書館を建てる、それから彼女は漂泊の画家に恋してしまう――といったふうな、ついぞこの人生にありようもない絵そら事を読み上げて行くのだったが、それでもやっぱり聴いているのは楽しくいい気持で、脳裡《のうり》には絶え間なくいかにも立派な安らかな想いが浮かんで来て、――所詮《しょせん》たちあがる気にはなれなかった。
「悪《あ》しくもないて……」とイヴァン・ペトローヴィチが小声で感想を漏らした。
 すると客の一人が、拝聴しながら想いをどこやら千里の外に飛ばしていたと見え、やっと聞きとれるほどの声でとんちんかんな相づちをうった。――
「いや……実にさようで……」
 一時間たち、二時間たった。すぐ近所の市立公園ではオーケストラが音楽を奏《かな》で、合唱団が歌をうたっていた。やがてヴェーラ・イオーシフォヴナがその手帳を閉じたとき、一同はものの五分ほど沈黙のままで、合唱団のうたっている『*榾《ほだ》あかり』の唄に耳を傾けていた。この唄は、いまの小説の中にこそなかったけれど人生にはよくあることを伝えているのだった。
「御作品は雑誌などに発表なさるのですか?」と、スタールツェフはヴェーラ・イオーシフォヴナに聞いた。
「いいえ」と彼女は答えた。「どちらへも発表はいたしませんわ。書いては戸棚の中にしまっておきますの。発表して何に致しましょう?」とその理由を説明して、「だって私どもには財産がございますもの」
 すると一同はなぜかしら溜息《ためいき》をついた。
「さあ今度はお前さんの番だよ、猫ちゃん、何か一つ弾《ひ》いてごらん」とイヴァン・ペトローヴィチが娘に向かって言った。
 召使たちがグランド・ピアノの蓋《ふた》をもち上げ、もうちゃんと用意のしてあった譜本を押しひらいた。エカテリーナ・イヴァーノヴナは席について、両手でもってキーをがんと叩いた。かと思う間もなく、またもや力任せに叩きつけた。それがもう一ぺん、また一ぺん。彼女の肩も胸もともぴりぴりと打ち顫《ふる》え、しかも執念ぶかくのべつ同じ場所ばかり叩きつけている有様は、そのキーをピアノの胴中へ叩き込んでしまわぬうちはとても止《や》めまいと思われるばかりだった。客間は雷鳴でいっぱいになってしまった。何もかもが一つ残らずどよめき渡った――床も、天井も、家具調度も……。エカテリーナ・イヴァーノヴナの弾いているのは難しい経過句《パサージュ》で、まさにその難しさのゆえにこそ面白いといった、長ったらしく単調なところだったが、スタールツェフは耳を傾けながら、心の中では高い山のうえから石が降って来る、ばらばらとひっきりなしに降ってくる有様を思い描いて、ああ一刻も早く降りやんでくれればいいと念じるのだった。と同時にまた、エカテリーナ・イヴァーノヴナの姿が――額に落ちかかる髪の房を振り払いもせず、緊張のあまり薔薇色《ばらいろ》に上気して、いかにもがっしりと精力的なその姿が、ひどく好もしいものに思えるのだった。ひと冬をヂャリージで、病人と百姓の中に埋まって暮したあとで、この客間に坐って、この若くって優美な、おまけに恐らくは純潔な生き物をながめ、この騒々しくて退屈きわまる、とはいえ文化的には違いない物の音《ね》を聴いているのは、――なんといっても実に愉《たの》しい、実にもの新しい気分だった。……
「よおし、猫ちゃんや、今日はまた何時《いつ》にない上出来だったぞ」とイヴァン・ペトローヴィチは両眼に涙をうかべて言った。娘が演奏を終えて起《た》ちあがった時にである。「*死ね、デニース、これ以上のものはもはや書けまい」
 一同が彼女をとり巻いて、おめでとうを言ったり、驚嘆してみせたり、あれほどの音楽は絶えて久しく耳にしたことがないと断言したりするのを、彼女は無言のまま微《かす》かな笑みを浮かべて聴いていたが、その姿いっぱいに大きく『勝利』と書いてあった。
「素敵ですな! 素晴らしいものです!」
「素敵ですな!」スタールツェフも、満座の熱中にばつを合わせて言った。「どちらで音楽をお習いになったんですか?」と彼はエカテリーナ・イヴァーノヴナに聞いた。「音楽学校ですか?」
「いいえ、音楽学校へはまだこれからはいるところですの。只今のところはここのマダム・ザヴローフスカヤに習っておりますの」
「あなたはここの女学校をお出になったのですか?」
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