いるもののように考えた。するとその時はじめて彼は誰かが自分をじっと見ているような気がして、いやいやこれは安息でも静寂でもないのだ、じつは無に帰したものの遣瀬《やるせ》ない憂愁《ゆうしゅう》、抑えに抑えつけられた絶望なのだと、ひとしきりそんなことを考えた。……
デメッティの記念碑は礼拝堂のような恰好《かっこう》をして、天辺《てっぺん》には天使の像がついていた。いつぞやイタリヤの歌劇団が旅のついでにS市に立ち寄ったことがあるが、その歌姫の一人がみまかってここに葬られ、この記念碑が建立《こんりゅう》されたのであった。町ではもう誰一人その女のことを覚えている人はないが、入口の上のところについている燈明が月の光を照り返して、さながら燃えているようだった。
人影はなかった。まったく誰がこの真夜中にこんな所へやって来るだろう? しかしスタールツェフは待っていた。まるで月の光が彼の身うちの情熱を暖めでもしたように、燃えるような気持で待ちつづけながら、接吻や抱擁《ほうよう》をしきりに想像に描いていた。彼は記念碑のほとりにものの半時ほど腰かけていたが、やがて帽子を片手にわき径《みち》からわき径へとひとわたりぶらぶらして、依然こころ待ちに待ちながら、こんなことも考えていた――一体ここには、その辺の塚穴の中には、どれほどの婦人や少女たちが、かつては美しく蠱惑《こわく》にみちて、恋いわたり、男の愛撫《あいぶ》に打ちまかせて夜ごとに情炎を燃やした身を、ひっそりと埋めていることだろう。まったく母なる自然というものは、何と意地わるく人間をからかうものなのだろう! それに想い到ると実に腹立たしい限りではないか! スタールツェフはそんなことを考えていたが、それと同時に彼は、いやいやそんなことは御免だ、是が非でもおれはこの恋を遂げて見せるぞと、大声で叫び出したかった。彼の眼の前にしろじろと見えているものは、もはや大理石の片《きれ》はしではなくて、その一つ一つがみごと円満具足の肉体であった。彼はそれらの姿が羞《は》じらうように樹《こ》かげに身をかくすのを目にし、その肌の温《ぬく》もりを身に感ずるのだった。そしてこの悩ましさは切ないほどに募って行った。……
とその時まるで幕が下りたように、月が雲間にかくれて、あたり一めん遽《にわ》かに暗くなった。スタールツェフはやっとのことで門をたずね当て、――何しろ秋の夜の常として今ではもう真っ暗だったので、――それから半時間ほどうろうろしながら、さっき馬車を残してきた横町をさがしまわった。
「ああくたびれた、立ってるのもやっとなくらいだよ」と彼はパンテレイモンに言った。
そして、ほっとした気持で馬車の中に掛けながら、彼はふとこんなことを考えた。
『やれやれ、肥《ふと》りたくはないものだ!』
三
あくる日の夕方、彼は結婚の申し込みをしにトゥールキンへ行った。ところが生憎《あいにく》のことに、エカテリーナ・イヴァーノヴナは居間に引っ込んで、調髪師に髪を結わせていた。彼女はその晩クラブである舞踏会へ出掛けるところだったのである。
またしても長いこと食堂にすわり込んで、お茶をがぶがぶやっていなければならなかった。イヴァン・ペトローヴィチは、お客が沈み込んで退屈そうにしているのを見ると、チョッキのかくしから何やら書きつけをとり出して、御領地内の錠前《じょうまえ》金具ことごとく破損仕り、塗壁《ぬりかべ》も剥落《はくらく》仕り候云々という、ドイツ人の管理人がよこした滑稽な手紙を読み上げた。
『花嫁にはきっと相当な財産《もの》がつくだろうな』とスタールツェフは、ぼんやり耳を傾けながら考えていた。
ゆうべ一睡もしなかったので、彼はふらふらとめまいがして、まるで何か甘ったるい睡眠剤でも嚥《の》まされたような状態だった。気持はもやもやしていたが、それでいて妙にうれしいような温々《ぬくぬく》とした気分で、しかもそのいっぽう頭の中では、何やら冷やかな重くるしい片《きれ》はしが、こんな理屈をこねていた。――
『思いとまるんだね、手後れにならんうちにな! あれがお前の手に合う女かい? あれは甘やかされ放題のわがまま娘で、昼の二時までも寝る女なのに、お前と来たら番僧の倅《せがれ》で、たかが田舎医者じゃないか……』
『ふん、それがどうした?』と彼は考えた。『いっこう平気じゃないか』
『それだけじゃない、お前があの娘をもらったら』とその片はしは続けた、『あれの親類一統はお前に田舎の勤めをやめて、町へ出て来いと言うだろう』
『ふん、それがどうした?』と彼は考えた。『町なら町でいいじゃないか。花嫁についた財産《もの》がないじゃなし、それで立派に門戸が張れようじゃないか……』
やっとのことでエカテリーナ・イヴァーノヴナが、舞踏会用のデコルテを着込んで可愛らしいすがすがしい姿になってはいって来たが、するとスタールツェフはすっかり見惚《みと》れてしまって、有頂天のあまり一言も口がきけず、ただもう眼をみはったままにやにやしているばかりだった。
彼女が行って参りますを言い始めると、彼も――こうなってはもうここに居残っている用もないので――立ちあがって、患者が待っているから家へ帰らなければと言い出した。
「致し方もありませんな」とイヴァン・ペトローヴィチは言った、「ではお出掛け下さいだが、ついでに猫ちゃんをクラブまで送りとどけていただきますかな」
そとは雨がぽつぽつ降っていて、ひどい暗さで、ただパンテレイモンの嗄《しわが》れた咳をたよりに、馬車のありかの見当がつくほどだった。そこで馬車に幌《ほろ》をかけた。
「わしはお家《うち》でお留守番、そなたはべちゃくちゃお出掛けと」とイヴァン・ペトローヴィチは娘を馬車へ乗せてやりながら言うのだった、「こなたもべちゃくちゃお出掛けと。……さあ出せ! さようならどうぞ!」
馬車は動きだした。
「僕はきのう墓地へ行きましたよ」とスタールツェフは始めた。「あなたもずいぶん意地のわるい無慈悲な真似をなさる方《かた》ですねえ。……」
「あなた墓地へいらしったの?」
「ええ、行きましたとも、おまけに二時ちかくまでも待っていました。えらい目に逢いましたよ……」
「たんとそんな目にお逢いなさるがいいわ、冗談の分からないような方は」
エカテリーナ・イヴァーノヴナは、自分に参っている男を見事に一番かついでやったし、それに人がこれほど熱心に自分に打ち込んで来るので御機嫌ななめならず、ほほほと笑い出したが、とたんにきゃっと悲鳴をあげた。というのは丁度そのとき馬がクラブの門を入ろうと急にカーヴを切ったので、馬車がぐいと傾《かし》いだからだった。スタールツェフはエカテリーナ・イヴァーノヴナの腰を抱きとめた。おびえ立った彼女が、ひたと彼に寄りすがって来ると、彼はつい我慢がならなくなって彼女の唇や頤《おとがい》に熱く熱く接吻して、なおもぎゅっと抱きしめた。
「もうたくさんだわ」と彼女は素気なく言い放った。
と思った次の瞬間、彼女の姿はもう馬車の中にはなくて、煌々《こうこう》と灯のともったクラブの車寄せ近くに立っていた巡警が、不愉快きわまる声でパンテレイモンをどなりつけた。――
「どうしたんだ、この薄のろ? さっさと出さんか!」
スタールツェフはいったん家へ帰ったが、じきにまた引き返して来た。借り物の燕尾服《えんびふく》を一着に及び、どうした加減かやたらにばくついてカラーからはみ出そうとするこちこちの白ネクタイをくっつけて、彼は真夜中のクラブの客間に坐り込み、エカテリーナ・イヴァーノヴナを相手に夢中でこんなことをしゃべっていた。――
「いやはや、恋をしたことのない連中というものは、じつに物を知らんものですなあ! 僕は思うんですが、恋愛を忠実に描きえた人は未だかつてないですし、またこの優にやさしい、喜ばしい、悩ましくも切ない感情を描き出すなんて、まずまず出来ない相談でしょうねえ。だから一度でもこの感情を味わった人なら、それを言葉で伝えようなんて大それた真似はしないはずですよ。序文だとか描写だとか、そんなものが何になります? 余計な美辞麗句が何になります? 僕の恋は測り知れないほどに深いんです。……お願いです、後生ですから」と、とうとうスタールツェフは切り出した、「僕の妻になって下さい!」
「ドミートリイ・イオーヌィチ」とエカテリーナ・イヴァーノヴナはひどく真面目な顔をして、ちょっと考えてから言った。「ドミートリイ・イオーヌィチ、そう仰しゃって下さるのはあたし本当に有難いと思いますし、またあなたを御尊敬申し上げてもおりますわ。でも……」と彼女は立ちあがって、立ったまま後を続けた、「でも、堪忍して下さいましね、あなたの奥さんにはわたくしなれませんの。真面目にお話ししましょう。ねえドミートリイ・イオーヌィチ、あなたも御存じの通り、わたしは世の中で何よりも芸術を愛していますの。わたしは音楽を気ちがいのように愛して、いいえ崇拝していて、自分の一生をそれに捧げてしまいましたの。わたしは音楽家になりたいの、わたしは名声や成功や自由が欲しいんですの。それをあなたは、わたしにやっぱりこの町に住んで、このままずるずるとこの空虚で役にも立たない、もう私には我慢のできなくなっている生活を、続けろと仰しゃるんですわ。妻になるなんて――おおいやだ、まっぴらですわ! 人間というものは、高尚な輝かしい目的に向かって進んで行かなければならないのに、家庭生活はわたしを永久に縛りつけてしまうにきまってますわ。ドミートリイ・イオーヌィチ(と呼びかけて彼女はちらっと微笑《ほほえ》んだが、それは『ドミートリイ・イオーヌィチ』と発音したとたんに例の『アレクセイ・フェオフィラークトィチ』を思い出したからだった)、ねえドミートリイ・イオーヌィチ、あなたは親切な立派な聡明なかたですわ、あなた他のどなたより優れた方ですわ……」と言った彼女の眼には涙がにじみ出た、「わたくし心の底から御同情いたしますわ、けれど……けれどあなたも分かって下さいますわね……」
そして、泣きだすまいとして、彼女はくるりと身をひるがえすと、客間を出て行ってしまった。
スタールツェフは、今の今まで不安げに打っていた動悸がぱったり止《や》んでしまった。クラブを出て往来に立つと、彼はまず第一にこちこちのネクタイを襟《えり》もとから引んもぎって、胸いっぱいにふうっと息をついた。彼は少々恥ずかしくもあり、自尊心も傷つけられていたし、――まさか拒絶されようとは思いもかけなかったので、――おまけに自分があれほどに夢み、悩み、望んでいたことの一切が、まるで素人芝居のけちな脚本にでもあるようなこんな馬鹿げた結末を告げたなどとは、とても信じる気にはなれずにいた。そして自分の感情が、この自分の恋がいかにも不憫《ふびん》でならず、その不憫さのあまりいきなり手放しでおいおい泣き出すか、さもなければ蝙蝠傘《こうもりがさ》でもってパンテレイモンの幅びろな肩を、力任せにどやしつけるかしたい気がするのだった。
それから三日ほどはてんで何事も手につかず、食事もしなければ眠りもしなかったが、やがてエカテリーナ・イヴァーノヴナが音楽学校にはいりにモスクヴァへ出発したという噂が耳にとどくと、彼はやっと落ち着きを取り戻して、また元の生活に返った。
そののち、自分があの晩、墓地をほっつき歩いたり、町じゅう駈けずりまわって燕尾服をさがしたりしたことを時たま思い出すと、彼はだるそうに伸びをして、こう言うのだった。――
「御苦労千万なことさ、何しろ!」
四
四年たった。今ではもうスタールツェフには町にもたくさん患家があった。毎あさ彼はヂャリージでの宅診を急いで済ませてから、町へ往診に出かけるのだったが、その馬車ももう二頭立てではなく、じゃらじゃら小鈴のついた|三頭立て《トロイカ》で、いつも帰りは夜がふけた。彼はでっぷり肥って来て、おまけに喘息《ぜんそく》もちになったので、歩くのが億劫でならなかった。パンテレイモンもやはり
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