戻って来たようにさえ思われた。実際また、彼女はあどけのない好奇の眼をみはって彼の顔をみつめていたのだ。それはさながら、いつぞや自分にあれほど熱烈な、あんなに濃《こま》やかな、しかもあんなにも報いられぬ愛情を寄せてくれた男を、もっと近く寄ってつくづく眺め、その人柄を呑み込もうとするかのようで、彼女の瞳は男のかつての思慕に対する感謝の色をたたえていた。それを見ると彼には、あの頃あったことの一切が、墓地をさまよい歩いたことから、やがて夜明け近くになってくたくたの体《てい》でうちへ帰ったことまで細大もらさず思い出されて、急にもの悲しくなり、過ぎし日が惜しまれるのだった。胸の中で小さな火がちょろちょろ燃えはじめた。
「あの覚えておいでですか、舞踏会の晩あなたをクラブまでお送りした時のことを?」と彼は言った。「あのときは雨が降っていて、真っ暗で……」
 小さな火はいよいよ燃えあがって、とうとう無性にしゃべりたくなった、生活の愚痴がこぼしたくなった……。
「いやはや!」と彼は溜息まじりに言った。「あなたはいま、私がどう暮しているかとお尋ねでしたっけねえ。こんなところでどう暮すも何もあるもんですか? 
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