からは人声や笑いごえが伝わって来るし、庭からは紫丁香花《はしどい》の匂いの流れて来るなかで、凍てがますますきびしくなって、沈みゆく太陽がその寒々《さむざむ》とした光線で雪の平原を照らしたり、ひとり淋《さび》しく道をゆく旅人を照らしたりしている光景をしみじみ味わい知れというのは、無理な注文というものであった。ヴェーラ・イオーシフォヴナの朗読は進んで、うら若い美貌《びぼう》の伯爵夫人がその持村に小学校や病院や図書館を建てる、それから彼女は漂泊の画家に恋してしまう――といったふうな、ついぞこの人生にありようもない絵そら事を読み上げて行くのだったが、それでもやっぱり聴いているのは楽しくいい気持で、脳裡《のうり》には絶え間なくいかにも立派な安らかな想いが浮かんで来て、――所詮《しょせん》たちあがる気にはなれなかった。
「悪《あ》しくもないて……」とイヴァン・ペトローヴィチが小声で感想を漏らした。
 すると客の一人が、拝聴しながら想いをどこやら千里の外に飛ばしていたと見え、やっと聞きとれるほどの声でとんちんかんな相づちをうった。――
「いや……実にさようで……」
 一時間たち、二時間たった。すぐ近所の市立公園ではオーケストラが音楽を奏《かな》で、合唱団が歌をうたっていた。やがてヴェーラ・イオーシフォヴナがその手帳を閉じたとき、一同はものの五分ほど沈黙のままで、合唱団のうたっている『*榾《ほだ》あかり』の唄に耳を傾けていた。この唄は、いまの小説の中にこそなかったけれど人生にはよくあることを伝えているのだった。
「御作品は雑誌などに発表なさるのですか?」と、スタールツェフはヴェーラ・イオーシフォヴナに聞いた。
「いいえ」と彼女は答えた。「どちらへも発表はいたしませんわ。書いては戸棚の中にしまっておきますの。発表して何に致しましょう?」とその理由を説明して、「だって私どもには財産がございますもの」
 すると一同はなぜかしら溜息《ためいき》をついた。
「さあ今度はお前さんの番だよ、猫ちゃん、何か一つ弾《ひ》いてごらん」とイヴァン・ペトローヴィチが娘に向かって言った。
 召使たちがグランド・ピアノの蓋《ふた》をもち上げ、もうちゃんと用意のしてあった譜本を押しひらいた。エカテリーナ・イヴァーノヴナは席について、両手でもってキーをがんと叩いた。かと思う間もなく、またもや力任せに叩きつけた。そ
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