っかり考えておりましたの。本当になんという幸福でしょう、郡会のお医者さんになって、お気の毒な人たちを助けたり、民衆に奉仕したりするのは。まったく何という幸福でしょう!」とエカテリーナ・イヴァーノヴナは夢中になって繰り返した。「わたしモスクヴァであなたのことを考えるたびに、とてももう理想的な、けだかい方に思えて……」
 スタールツェフはふと、自分が毎晩ポケットからほくほくもので引っぱり出す例のお札のことを思い出し、胸の小さな火が消えてしまった。
 彼は母屋《おもや》の方へ行こうと立ちあがった。彼女はならんで彼と腕を組んだ。
「あなたはわたしがこれまでに存じ上げたかたの中で一ばんお立派なかたですわ」と彼女はつづけた。「これからもお会いしましょうね、そうしてお話しを致しましょうね、そうじゃなくって? 約束して下さいましな。わたしピアニストなんかじゃありませんし、もう自分のことであれこれ迷ったりなんぞもしませんわ。それからあなたの前ではピアノも弾きませんし音楽の話もしませんわ」
 一緒に家の中へはいって、夜のあかりのもとで彼女の顔や、自分にそそがれている悲しげな、感謝にみちた、さぐるような[#「さぐるような」は底本では「さぐるやうな」]眼を見たとき、スタールツェフはふっと不安におそわれて、またしてもこう考えた。
『よかったなあ、あのときもらっちまわないで』
 彼は別れの挨拶をしはじめた。
「夜食もあがらないでお帰りになるなんて、そんなローマ法がありましょうかな」とイヴァン・ペトローヴィチは彼を送って来ながら言うのだった。「それじゃあなた、何ぼ何でも垂直きわまるなさり方ですなあ。おいおい、一つ演《や》ってごらん!」彼は玄関でパーヴァに向かってそう言った。
 パーヴァはもはや子どもではなく、口髭《くちひげ》を生やした一人前の若者だったが、それが見得を切って片手をさし上げ、悲劇の声色《こわいろ》でこう言った。――
「ても不運な女《やつ》、死ぬがよい!」
 こうしたことが一々みんなスタールツェフの癇《かん》に障るのだった。馬車の中に腰をおろしながら、かつては自分にとってあれほど懐かしく大切なものだった、黒々とした家や庭を眺めやって、彼は何から何まで――ヴェーラ・イオーシフォヴナの小説のことから、猫ちゃんの騒がしい演奏のこと、イヴァン・ペトローヴィチの駄洒落《だじゃれ》のこと、パーヴ
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