をするために文学は無用であつた。文学は天邪鬼のみを吸ひ寄せた。善良な国民は、文学と縁を切らされたのである。義務教育は文学的教養を無視しつつ、文学中毒者を出すに止つた。西洋文学は氾濫はしたが、浸潤はしなかつた。文学を志すものは、同志以外に、倶に語る相手はなく、「自分」を語る以外の興味を失つてしまつたのである。
西洋崇拝の思想は、いろいろなところから来てをり、いろいろな種類に分けられるが、西洋の物質文化に憧れるものなどは、今日殆どありはせぬのである。政治家も教育家も、恐らくそのことに気がついてゐる筈である。ただ、わざと知らん顔をしてゐるだけである。西洋排斥の音頭取りは、西洋崇拝の軽薄な一面をしか見てゐないのではない。もつと深刻な一面があることを惧れてゐるのである。
キリスト教や共産主義は、なるほど西洋の思想なら、それでもよろしい。ただ、深く人間を見、高い精神と、豊かな感情とを描き出す力は、何によつて養はれたか? 外国の侵略を蒙らないといふやうな歴史だけではないのである。
西洋のどこの国も、西洋のどんな人間も、われわれは崇拝などはしてはゐない。ほんたうに愛してさへもゐないやうに思ふ
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