鞄をおろして新聞を買つた。神風号の消息は?
 丁度そこへ、上野から列車がはひつた。遅からず早からず、計算どほりと鼻を高くして悠々二等車へ乗り込んだ。
 新聞を三種読み終ると、私は、畏友佐藤正彰君から贈られた翻訳小説ネルヴァールの「夢と人生」を鞄から取り出して、貪るやうに頁を繰つた。なかなか面白い。流石に発狂と発狂の間に書いた物語だけあつて、常人の寝言に似て非なるものである。
 時々窓の外に眼をやると、五月の野は、爽やかに緑の風を含んで、旅情、うたゝはづむ思ひである。
 もうどのへんに来たらうかと、気をつけてみても車が走つてゐるうちはわからない。停つた時は、ネルヴァールの筆に魅せられて息もつかぬ刹那である。しかたがないから、思ひ出し思ひ出し時計をみる。やがて、高崎につく時分だ。
 ところが、やつと着いたのは、宇都宮であつた。汽車を間違へて、一つ前の日光行に乗つてしまつたのだとわかつた。
 別に慌てることはない。駅員から、宇都宮に用はないかと訊かれ、「ない」と答へるのも無愛想だと思つたが、正直に「ない」と答へた。それではといふので、大宮まで逆戻りの特典を与へられ、五時間あまり鉄道省のパスを利用したことになつた。
 そこで、予定を変更して、高崎から薬師温泉に出て、一晩泊り、翌日、馬で山を越えることにした。最初は逆に、北軽井沢から馬で薬師へ出る計画だつたのである。
 薬師温泉といふのは、昔あつた鳩の湯といふあのすぐそばで、三四年前に一度行つたことがある。宿の主人、X氏は頗る商売熱心で、私などをつかまへて温泉経営の意見を求めるものだから、私も図に乗つて、若干、秘訣を伝授したところ、それが大いに当つたと、今度行つてお世辞を云はれた。かうなると、あとは提灯持ちみたいになるからやめるが、高崎から十幾里の山奥の、温《ぬる》川の谿谷は奇ならずと雖も閑寂、樹々は五分の芽立ちで、桜は散りそめ、山吹は盛り、つゝじも、早咲きが見頃である。
 風呂を浴びて、例になくビールを傾け、食事が終る頃、今とれたと云つて山女魚《やまめ》を籠のまゝ見せに来た。
 翌朝、馬の用意ができてゐる。弁当の握り飯を鞍につけ、手拭を裂いてゲートルとし、馬子に鞭代りの細竹を折らせて、蹄の音高く宿を出た。「浅間隠し」と呼ばれる山の峰が目の前に聳えてゐる。峠を越えて僅か二里の道であるが、馬上、煙草をくゆらせば西別利亜もなんのそ
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング