かし、局長さんは、熱心に耳を傾け、いちいち大きくうなづいてみせ、さて、私の方に向ひ、
「謝々《シエーシエー》」
と言つたやうに思つた。
そこへ、表から、忙がしさうにはひつて来た一日本人があつた。年は三十をいくつか過ぎてゐるであらうと思はれるがつしりした青年である。
お婆さんは私に耳うちをした。
「あれが、井河先生ですたい」
私の会はねばならぬ人である。
役目はこの警察局の主事といふ、つまり顧問格なのであらうが、実際の権能は寧ろ今のところ局長の上にありと私には察しられた。
かういふ都市の治安維持、進んでは行政、経済その他一般の平和工作が、現下の情勢では、まだ軍事的機関の一翼に連つて進められることは勿論であるから、あまり立ち入つたことは書けぬと思ふ。が、単なる好奇心からでなく、国民は、前線躍進の有様と同時に、後方の落ちつきを「手に取るやうに」知り得る術はないかと念じてゐるのである。
私は、この保定を一例として、可能な範囲に於ける見聞を綴つてみよう。
井河氏の好意で、その夜は、警察局官舎といふか、同氏の私室といふか、とにかく局構内の奥まつた一室を特に私のために明けてもらつた。
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