じめた。
そこで私は、ぼんやり「勇気」といふことについて考へてみた。
誰が云つたのか忘れたが、支那兵のなかにもなかなか強いのがゐて、勇敢に立ち向つて来るが、それはたゞ、向つて来るといふだけで、こつちにとつてはあんまり怖ろしくない。なぜなら、それ以上のことはできないからで、いよいよとなると、たゞ首を差しのべるだけだ、といふのである。
これがどこまでほんとだか私にはわからない。しかし、今度の戦争でも、さういふ支那式の勇気が発揮されてゐるやうに思ふ。
日本人の眼から見れば、この種の勇気は、まことにつまらぬものゝやうにとれるかも知れず、進む以上は一敵でも多くを屠ることこそ真の勇気であると考へられるであらう。
ところが、この違ひは、たしかに国民性によるものであるのみならず、軍隊としての士気、即ち、訓練と自信の相違にあること明かであつて、恐らく彼我立場をかへたならば、どういふ形で表れるか、これはちよつと判断がしにくいのである。
およそ今日、わが軍将士の眼覚ましい働きについては、これをかれこれ論ずるものもないくらゐであるが、その働きのよつて生ずる精神的な力、特に「勇気」の形に現れたところをとらへて、その質を吟味するといふことを、誰かが試みてはくれないであらうか?
私は、また嘗てある武官からかういふ話を聞いたことがある。欧洲戦争の時、各国の軍隊は、それぞれよく戦ひ、長期に亙る対陣中にも、われわれが眼をみはるやうな勇猛ぶりを発揮した。しかし、彼等が日本の兵隊と違ふところは、飽くまでも自分の「生命」を大切にすることである。生きられるだけ生きようとする努力が、常に彼等の行動を支配してゐる。死んでもかまはぬと覚悟する前に、なんとかして生きられぬかといふ工夫を忘れない。
それがいくぶん死を怖れるといふ表情を呈することもあるにはあるが、それでも危険を冒しもし、その危険のなかで最も安全な道を選ぶ判断を狂はせないことにもなる。
そこへ行くと、日本人は、死ぬことが即ち目的であるかの如き放れ業を演ずる。生命を投げ出すことが、即ち義務であり、名誉であるといふ信仰に燃えてゐる。その結果が、奇蹟的な勝利を導きさへするのである。生命への執着は、明かに卑怯と見える場所があることをわれわれは教へられてゐるのだ。指揮官が部下に「死ね」と命ずる、その象徴的な意味を、西洋人は理解し難いだらう。自分の最後を壮烈なものとしようとする祈願は、日本軍の所謂「神速な行動」の基礎である。
なるほどと、私は思つた。
が、こゝでちよつと面白いと思ふのは、日本人の勇気は、支那人のそれとも、西洋人のそれとも違ふのは確かだとして、さて、東洋と西洋とを比べてみた時、日本人と支那人とに共通なある一点が発見されはせぬかといふことである。この比較は、支那軍を敵として無理に高く評価することにはならぬと思ふ。
「生命」または「死」といふものに対する、東洋的なある種の観念が、たまたま、二つの民族の間で、別個のニユアンスをもつて、その戦ひぶりを彩つてゐるといふだけの話である。
私は別にこゝから教訓を引出さうとは思はぬ。戦ひは現に、この両民族の手で戦はれ、欧米人は、その光景に戦慄しつゝある。
われわれは、どちらかと云へば、殺戮の悲劇に眼を蔽ふことを恥ぢ、「生きんとするもの」の叫びをたまたま滑稽に感じる風習に慣らされてゐることを告白せねばなるまい。
私はまだ飛行機の上にゐるのである。外をみると、何時のまにか、もう例の大浸水地帯の上にさしかゝつてゐる。雲がきれぎれに浮んでゐる上へ、翼の影をおとしながら、高度八百の水平飛行である。
空の一角に地上の部落が映つてゐるのかと思ふと、それはやはり、水面に浮ぶ村々の眠つてゐるやうな姿であつた。それほど、眼界は広漠として高いのである。
たちまち、綿雲が地上を包んだ。その代り空は緑色に輝きだした。私は眼をつぶつて、再び瞑想に耽るより外はない。
が、それからの、とぎれとぎれの夢は、まつたく事変とは関係のないものであつた。
天津――北京
天津の街では円タクを拾ふといふことが不可能である。平生はどうか知らぬが、只今は流し自動車など一台も見当らぬ。
私の拾つた人力車は、勿論、私の言ふことは通じないらしい。
「タラチ・ハウス・ホテル」
なんども繰返したが、駄目である。
「英租界」
と、いくぶん、支那語風に発音して聞かせたけれど、車夫は困惑の態に陥るばかりだ。
「タラチ・フアンテン」
と云ひ直した。飯店とはホテルのことである。
交通整理のお巡りさんがやつて来た。
これならわかると思つて、再び、タラチ・ハウス・ホテルを繰り返した。
彼はうなづいて、車夫に何やら説明したらしい。
車夫は、「なあんだ」といふ顔をして走りだした。
が、どうも
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