を思ひ出した。東洋人の間では、さういふことは殆ど想像ができないのではないか。これはなかなか面白い問題である。
 少し行くと炊事場である。
 皮を剥いた豚が大きな調理台の上に寝てゐた。一方では、白菜を洗つてゐるものがある。
 隊長は井戸をのぞき込んで、傍らの兵士に訊ねた。
「水はいゝか?」
「はあ、まづいゝ方であります」
「どら、汲んでみろ」
 釣瓶代りのバケツに汲みあげられた水は、白く濁つてゐた。
「これでまづいゝ方かな」
 Sは首をかしげた。
「ほつとくとだんだん澄んで来るんであります」
「それやさうだらうが、あんまり感心せんな」
 私も感心しない。が、兵士は水の責任を自分が負ふ覚悟で黙つてゐた。
 井戸の縁は地面とすれすれで、井戸側といふものがないらしく、外へ溜つた水が中へ逆流しさうである。
「こいつはなんとかならんか。汚いぞ」
 Sの注意は至極尤もだが、これは、炊事係の下士も気がついてゐるとみえ、
「はあ、それに、いま、はめるものを作らせてをります」
 敬礼! 一斉に靴の踵を揃へる音がした。
 私は帽子を脱いだものかどうか?
 それから、警備の状態をひと通り視廻り、Sは、自動車を招き寄せた。
「なにしろ、明日出発命令が下るかも知れんのだからな。落ちついちやゐられないよ」
「うつかり洗濯もできないね」
 と、私は暢気なことを云つた。やがて、飛行場の天幕に帰ると、そこへ、新しく交代した警備隊の隊長が打合せに来た。歩哨の地位を今迄と少し変へることなど相談をした後、
「それから、村落内に怪しい支那人が一名潜入してゐるらしいといふ報告を受けました。只今、巡察を二組派遣しておきましたが……」
「人間がゐるところは大丈夫だよ。それより、飛行機の方だな。まあ、よろしく頼みます」
 あとで、私は、部落民の日本軍に対する感情はどうかと訊ねた。
「うん、場所によるね。大体穏かだが、なかには油断のならん奴がゐるよ」
「ある砲兵隊が舎営してゐる部落で、敗残兵だか匪賊だかの襲撃を受けたところがあるつてね。なんでも部落民のいくたりかゞ焚火をして合図をしたんだつていふぢやないか」
 私は何処かで聞いた話を、逆に持ち出してみた。
「ふむ」
 とSは別に気にもとめないらしい。
 プロペラの唸りが、あちこちで聞える。機械の点検をしてゐるのであらう。ずらりと並んだ○○機の、やゝ仰向き加減に翼を張つて、隊長の天幕をぢつと睨み、命令一下を待つてゐるやうな姿勢が、息づまるほどの物々しさである。これ以上邪魔をすまいと思つたが、さて、行先はと考へる。北京へ直行するにしても、汽車では四五日を見ておかねばならぬ。若しや便宜を計つてもらへたらと、私は、Sにかう云つた。
「これから北京へ行かうと思ふんだが、飛行機の序はないかね?」
「序? さあ、おれんとこにはないが、待てよ……天津までぢやいかんか?」
「いかんことはない。それでもいゝ」
「○○司令部の連絡機に席が空いてないか、訊いてみてやらう」
 丁度、S自身、○○部へ出掛ける序があるとみえ、私も彼の車に同乗することができた。

     支那風呂

 南方邯鄲に通ずる道路は、交通のはげしいためか、ひどく傷んでゐる。
 日中はまだ相当に暑い。強行軍の徒歩部隊が、砂塵のなかをぐんぐん押して行く姿が目につく。胸の釦を外し、手拭を口にくはへ、戦帽の後ろに汗がにじんでゐる。根かぎり歩くのだといふ決意が、一人一人の顔色にうかがはれる。隊長は黙々と軍刀をつき、時々、隊列の乱れを気にしてゐる。ひと足おくれかけた兵士は、背嚢を両臂で支へ、前のめりに追ひ附かうとあせる。飯盒が音を立てるのは中身の乏しい証拠である。今夜は、何処で泊るのか。そこには何が待つてゐるか。せめて喉をうるほすに足る清水でも湧いてゐてくれ。
「おい、こら、みろ。徒歩部隊は、かういふ時は辛いぞ。お前らは、まるで大尽だ」
 Sは、運転手台の兵士らに声をかけた。
 ○○に着く。
 Sについて上つて行くと、彼は、
「ちよつと待つてくれ」
 と云つたまゝ、一室の中へ姿を消した。私は、戸口で、ぼんやり待つてゐた。この部屋のなかでは、重要な作戦が籌らされてゐるのだなと思ひながら、私は、廊下を往つたり来たりし、煙草を一本喫ひ、ノートを取出して、ふと浮んだことを記し、などしてゐると不意に後ろで靴の音がした。
 ○○の一将校が、銃に着剣をした○○兵を従へて、のつそり歩いて来た。私は、手摺を背にして道をあけると、その将校は、私の前に立ち止つて、じろじろ私の顔を見、「お前は何者だ」と云はんばかりの表情で私の返答を待つ身構へをした。
 そこで、私は、先づ、自分の風体といまゐる場所を考へ、なるほど不審に思はれてもしかたがないと気づき、
「S部隊長を待つてゐるところです」
 と、甚だ要領を得ぬ弁解をした。
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